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顕光院の沿革と歴史

開基 道翁学公律師

開山 揚室印播禅師


開創と改宗

寺伝によれば、顕光院は天文元年(1532)、道翁学公律師によって真言宗の寺院として創建されました。当初は「安西山大仏寺」と称したとのことですが、永禄3年(1560)12月14日に今川氏真から給付された文書には「顕光院」の名前が記されているため、詳しいことはわかりません。あるいは、「安西山顕光院大仏寺」だったのかもしれません。
その後、元亀2年(1571)、当時の住職の松翁龍公律師の招きにより、遠州一宮高雲寺2世揚室印播禅師が顕光院を曹洞宗に改宗したと伝えられています。
(右の写真は、天正16年(1588)に記された揚室印播禅師の自署)


徳川家康と穴山梅雪

天正10年(1582)、織田信長と徳川家康の連合軍が、甲斐国の武田勝頼を攻略するために軍勢を東に進めました。2月21日、顕光院長老は徳川家康の依頼により、江尻城を守っていた武田方の重臣、穴山梅雪に投降を促すため、徳川家臣の長坂血槍九郎信政とともに江尻城に赴きました。その結果、穴山梅雪は3月1日に家康に投降。織田・徳川連合軍は穴山梅雪の先導によって甲斐国へ進軍し、3月11日に武田家は滅亡しました。
この時、顕光院は穴山梅雪の軍扇を拝領し、後日、恩賞として中田医王寺屋敷と同寺に祀られていた薬師如来像などを下賜されました。これを記念して、顕光院では3世山高宗徳大和尚の代に、山号を「医王山」に改称したと伝えられています。ちなみに、中田医王寺は、もとは臨済寺の末寺だったと推定されます。また、この時の長老を、『駿河国新風土記』は松翁龍公律師と記しています。
(右の写真は、拝領した穴山梅雪の軍扇。実物は現存せず)

佐久間大膳と寺紋

寛永11年(1634)11月12日、駿府の警備を任務とする駿府加番として駿府に滞在していた、信濃国長沼藩1万8千石の藩祖、佐久間大膳亮勝之が亡くなり、顕光院に葬られました。戒名は「勝之院殿璀岩成澯大居士」。しかし、後に子孫によって、佐久間大膳の墓所は顕光院に残したまま、菩提寺は江戸日本榎の広岳院に移されたと言われています。また、長沼佐久間家は貞享5年(1688)、4代勝親の代に断絶しました。こうした理由から、顕光院では1700年代の中頃には、佐久間大膳の位牌が祀られていながら、それが誰のものであるのかわからなくなっていたようです。
けれども、顕光院の寺紋の「丸に三つ引き」は佐久間氏のものと同じであり、他に、この寺紋の由来として該当する人物が見当たりません。そのため、この寺紋は佐久間大膳の置き土産だったのかもしれません。
(右の写真は、佐久間大膳の墓ではないかと推測される五輪塔)

十辺舎一九と重田家

『東海道中膝栗毛』の作者として有名な十辺舎一九は、駿府町奉行同心をつとめる重田家の出身で、現在の静岡市葵区両替町に生まれました。本名は重田貞一、幼名を市九といいました。江戸で人気作家として大成し、天保2年(1831)8月7日に江戸で亡くなると、江戸浅草東陽院に葬られました。顕光院に一九の墓はありませんが、重田家は古くからの顕光院の檀家であり、一九の生誕より100年ほど前の先祖から、現在のご子孫までの墓塔がならんでいます。ちなみに、重田家は伊豆の出身で、元禄7年(1694)には顕光院の中庭に縁石を寄進されていることが記録に残されています。
(右の写真は、重田家墓地。一番背の高い石塔は顕光院に現存する最古の墓碑。その左の小さな墓は一九の弟のものと推定されている)

戦前の本堂と位牌堂

戦前の顕光院の本堂は、一般に碁盤等の材料として用いられる、非常に堅固な榧(カヤ)の木のみで造られたものでした。この本堂は、もとは甲斐国出身の名僧、天巌祖暁禅師が正徳4年(1714)に開創した牧ケ谷の秀道院の本堂として、享保18年(1733)11月に建立されたものでしたが、明治12年(1879)に顕光院に移築されました。残念ながら、この本堂は戦時中の空襲によって焼失しました。
一方、位牌堂(兼開山堂)は昭和6年5月の竣工で、鉄筋コンクリート造りの寺社建築としては、旧静岡市(現在の静岡市葵区と駿河区)で最古の建造物です。完成当初は堂内の壁面全体に、森田鶴堂の鏝絵(こてえ、漆喰絵)によって、衆生来迎図の一大パノラマが描かれておりました。内部の壁画は空襲時に焼失し、伽藍も老朽化のため平成25年(2017)年に解体し、新たな堂宇に建て替えました。
(写真は、上左から、戦前の本堂前景、竣工間もない位牌堂の背景、位牌堂内部の壁画
  下左から、戦前の山門、戦前の庫裏、戦前の庭園)

太平洋戦争と戦後の復興

太平洋戦争の戦火が激しくなった昭和19年8月末、東京都荏原区(現品川区)の旗台小学校の児童約100人が顕光院に疎開してきました。児童達は昭和20年6月15日頃に青森県大鰐温泉に再疎開しましたが、同年6月19日深夜の静岡大空襲により、顕光院も位牌堂の伽藍を除いて、堂宇の全てを焼失しました。
終戦後、昭和22年秋には早くも現在の本堂を再建し、昭和24年に中央幼稚園を開園しました(昭和52年閉園)。昭和40年代に入ると、静岡市の区画整理にともなう墓地改修、鉄筋コンクリート造りによる幼稚園舎の改築を行い、昭和45年には現在の庫裏を再建しました。また、平成7年に顕光院会館を建立し、あわせて茶室修証庵を造営しました。

     
   昭和17年金属供出     昭和19年疎開児童(本堂前にて)    昭和22年再建中の本堂

      
 本堂再建後の境内(裏手より)    昭和28年授戒会記念      昭和26年第2回幼稚園卒園式
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仏教興隆と平和祈念

現在、仏教研究の基本資料として世界的に用いられているのが、大正13年から昭和9年にかけて我が国で編纂された大正新修大蔵経全100巻です。顕光院はこの編纂事業に賛同し、編集費用の募金に協力しました。
また、当時の住職の25世加藤道順師は、自らが中心となって、大正5年に静岡新西国33観音霊場、昭和7年に駿河一国百地蔵尊の巡礼路を制定しました。
戦後、26世木村義裕師は、昭和34年5月に日本仏教徒を代表して単身インドネシアに赴き、国際的な祭典に参列するとともに、戦争犯罪人として処刑された方々の遺骨を送還するための交渉を行いました。
さらに昭和53年には、終戦後にシベリア抑留中に亡くなられた方々の菩提を弔うため、萩原角太郎氏が刻んだシベリア平和観音が奉納されました。開眼式には、全国各地からシベリア会の会員が集まりました。





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医王山顕光院

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 住 職 木村 文輝
 東 堂 木村 自佑