太平洋戦争の戦火が激しくなった昭和19年8月末、東京都荏原区(現品川区)の旗台小学校の児童約100人が顕光院に疎開してきました。児童達は昭和20年6月15日頃に青森県大鰐温泉に再疎開しましたが、同年6月19日深夜の静岡大空襲により、顕光院も位牌堂の伽藍を除いて、堂宇の全てを焼失しました。
終戦後、昭和22年秋には早くも現在の本堂を再建し、昭和24年に中央幼稚園を開園しました(昭和52年閉園)。昭和40年代に入ると、静岡市の区画整理にともなう墓地改修、鉄筋コンクリート造りによる幼稚園舎の改築を行い、昭和45年には現在の庫裏を再建しました。また、平成7年に顕光院会館を建立し、あわせて茶室修証庵を造営しました。
昭和17年金属供出 昭和19年疎開児童(本堂前にて) 昭和22年再建中の本堂
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仏教興隆と平和祈念
現在、仏教研究の基本資料として世界的に用いられているのが、大正13年から昭和9年にかけて我が国で編纂された大正新修大蔵経全100巻です。顕光院はこの編纂事業に賛同し、編集費用の募金に協力しました。
また、当時の住職の25世加藤道順師は、自らが中心となって、大正5年に静岡新西国33観音霊場、昭和7年に駿河一国百地蔵尊の巡礼路を制定しました。
戦後、26世木村義裕師は、昭和34年5月に日本仏教徒を代表して単身インドネシアに赴き、国際的な祭典に参列するとともに、戦争犯罪人として処刑された方々の遺骨を送還するための交渉を行いました。
さらに昭和53年には、終戦後にシベリア抑留中に亡くなられた方々の菩提を弔うため、萩原角太郎氏が刻んだシベリア平和観音が奉納されました。開眼式には、全国各地からシベリア会の会員が集まりました。
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