第九九番 小菊堂 言成地蔵尊
三島市東本町1丁目
<小菊の悲劇>
言成地蔵を祀った小菊堂は、三島大社の正面から下田街道(県道〇〇号線)を約五百メートル南下したところにあり、お堂の前には昭和二五年に設置された「言成地蔵尊」の碑が建っている。
貞享四年(一六八七)の春、江戸へ向かう播州明石城主、松平若狭守直明の行列が三島宿を通りかかった。ちょうどその日、この近辺に住んでいた尾張藩の浪人、尾張屋源内の六才の娘、小菊がこの行列に出くわした。小菊は道の反対側にいる母親を見て、思わず行列の前を横切ってしまった。とっさに、行列の中の上役人が「犬だ、捨て置け」と叫んだけれども間に合わず、小菊は本陣に連れて行かれると、そのまま手打ちにされることになった。
そこで、町名主たちが総代になって小菊の命乞いをしたが許されず、ついに玉沢妙法華寺の二四世、日迅上人にすがることになった。当時、同寺は一〇万石の格式を誇り、若狭守と同格だったけれども、日迅上人は下座について小菊の助命を嘆願した。しかし、この願いも聞き入れられず、小菊は処刑されてしまった。
悲報を聞いた小菊の母は自害し、日迅上人は寺を離れて雲水の旅に出た。そして、源内は小菊の仇を討つために、箱根山中で若狭守の行列を待ち伏せして鉄砲で狙った。しかし、源内は目的を果すことができず、その場で割腹して果てたという。
〈言成地蔵の建立〉
一方、三島宿の人々は、源内一家が住んでいた近くの法華寺に小菊を葬り、地蔵尊を建てて供養した。やがて、この悲話は人々から忘れられたが、明治初年、近在の柏屋定五郎が現在の場所に小さなお堂を建てて、この地蔵を祀った。しかし、このお堂は昭和五年の伊豆震災で倒壊。現在の小菊堂は昭和七年に再建された。ちなみに、この場所は江戸時代までは三島宿の南見付があった場所で、小菊堂の境内には、かつてこの辺りを流れていた桜川に、元和八年(一六二二)に架けられた石橋の用材が保存されている。
尊像は、高さ約五〇センチの光背のある石仏で、左手に宝珠、右手に錫杖をもっている。また、左上から右下にかけて割れた跡があり、光背の頂部も欠けている。しかし、この尊像は祭壇の奥深く、幔幕の後ろに祀られていて通常は見ることができない。幔幕の前には高さ一八センチの前立て地蔵が祀られており、毎月二三日の言成講の際に開扉される。例大祭は毎年九月二三日である。
「言成地蔵」の名前は、小菊が「何でも、殿様の言いなりになりますから、許してください」と必死で嘆願したからだとも、小菊が殿様の言いなりに殺されたからだとも言われている。また、この地蔵は何でも言いなりに願いを聞いてくれるともいい、かつては、子どもの病気や夜泣きに効験があるとも言われた。お堂の前には、子どもの成長を祈って奉納された地蔵が数体並んでいる。
ところで、三島市内には小菊堂から西へ約一キロ、西本町の木町観音堂の境内にも言成地蔵が祀られている。こちらの尊像は高さ約一二〇センチの石造の座像で、事件から二五年後の正徳二年(一七一二)に建立された。これは、小菊の母がこの近辺の出身であったため、地元の人々が祀ったものだと言われている。
ご詠歌 万代のつきせぬ法のみづきよく 言成地蔵の影ぞ映らん