第九七番 高源山西福寺(時宗) 成就地蔵尊
三島市大宮町一−八−五八
<水上道場と尊観法親王>
高源山慧明院西福寺は、三島大社の社殿の真西約三百メートルに位置し、白滝公園から桜川沿いに百メートル程南下した地点で、白雪橋を渡った奥にある。
この周辺は、富士山の雪解け水が豊富に湧き出す場所であり、古くから「水上」と呼ばれてきた。弘安五年(一二八二)、一遍上人が三島大社を訪れた時、一度に往生を遂げた七、八人の従者達がこの地の高台に葬られた。西福寺はその墓地のある場所に、延慶二年(一三〇九)、一遍上人の弟子の僧声阿通天によって開かれた。別名を水上道場というが、寺号等の由来は不明である。本尊は阿弥陀如来立像。一四世紀頃の慶派の作と推定されている。
その後、南北朝時代には南朝方の亀山天皇の孫、尊観法親王が西福寺六世となり、元中四年(一三八七)、三九歳の時に同寺で遊行一二世を継いだ。伝承によれば、尊観法親王は相模国に向かう途中で、箱根山の険しさを恐れてこの地に留まったという。しかし、尊観法親王は遊行上人になった後、亡くなるまでの一四年間、全国各地を遊行したばかりでなく、有髪にあごひげをはやし、戦闘になれば法衣を捨てて軍勢を率いる意図を抱いていたとも言われている。そこで、実際には三島大社の勢力を南朝方に引き入れるために、西福寺に逗留したとも考えられている。ちなみに、同寺の玄関の上には今も菊の紋章が残されている。
本堂の向かって右側の墓地には、先述した一遍上人の従者達の墓をはじめ、三島大社の神官の鳥居家や、三島暦の版元の河合家の墓が並んでいる。また、この地は戦国時代に武田、今川、北条の三氏による相次ぐ合戦の舞台となり、戦没者は西福寺の裏山に葬られた。そのため、当時の人骨や墓石等が今も発見されており、それらの一部が、本堂に向かって左側の無縁墓地に祀られている。
<尊観法親王と成就地蔵尊>
成就地蔵尊は山門を入って右側の地蔵堂に祀られている。現在のお堂は平成一五年の再建。内側には松永好生師による仏画が描かれており、中央に地蔵尊の厨子が安置されている。尊像は高さ八三センチ。左手に宝珠、右手に錫杖をもつ木製立像である。行基の作と言われているが、実際には鎌倉時代頃の作と思われる。ただし、長年の間の損傷と修復により、当初の姿は失われている。
寺伝によれば、尊観法親王はこの地蔵に毎日熱心な祈りを捧げていたという。おそらく南朝の復興を願ったものと思われるが、その悲願成就を祈願したことから、「成就地蔵」と呼ばれるようになったと言う。また一説には、この一帯を湧水の氾濫から守るため、江戸時代の初め以前に、同寺の前を流れる桜川が掘削された。ところが、その工事は人柱を立てるほど難航したため、人々はこの地蔵に工事の成就や、後には水路の修復成就を祈願した。それが、「成就地蔵」の名前の由来になったとも考えられている。
地蔵尊の縁日は七月二三、二四日。この日には施餓鬼会をかねて供養が行われる。また、二月一五日頃にも涅槃会とあわせて地蔵尊の供養が行われており、その時には尊像の指に結ばれた五色の糸を通して、参詣者は地蔵尊との縁を結ぶことが可能である。