第九六番 君沢山蓮馨寺(浄土宗)日限地蔵尊   

三島市広小路町一−三九

蓮馨寺の仏たち>

 君沢山蓮馨寺は、伊豆箱根鉄道の三島広小路駅の東側、道路を一本隔てたところに位置する。
 寺伝によれば、同寺は奈良時代に伊豆国分寺の境内の一堂として始まったという。当時は華厳宗であったが、後に真言宗の時代を経て、正応二年(一二八九)、明蓮社量誉上人によって浄土宗に改められた。山号は、この地が伊豆国君沢郡であることに由来する。また、寺号は、かつて同寺の裏に蓮沼池という大きな池があり、蓮の花の香る寺という意味で名付けられた。本尊は阿弥陀如来立像。室町時代の作で、胎内に一体の小さな仏を納めている。
 同寺の山門をくぐると、すぐ右脇に高さ一二七センチの「芭蕉老翁墓」がある。これは、松尾芭蕉の没後八四年を経た安永七年(一七七八)に建てられたもので、左面に「いさともに麦穂喰はん草枕」の句が刻まれている。この碑の横には、寛政一〇年(一七九八)建立の日限地蔵の供養碑、多数の水子地蔵、元禄八年(一六九五)建立の、台座を含む高さ約二三五センチの阿弥陀如来座像、同じく一八〇センチ程の地蔵座像が順に並んでいる。
 一方、山門の左側には、手前から子安地蔵堂、無縁墓、聖観音を祀る観音堂が並んでおり、観音堂の前には二体の馬頭観音が建っている。この中で、子安地蔵堂には多数のひしゃくが飾られている。これは、ひしゃくの底に穴を開けて安産を祈ると、通りがよくなって安産になり、産後、お礼参りに穴のないひしゃくを奉納すると、子どもが丈夫に育つという言い伝えによるものである。
 また、本堂の東側には聖徳太子殿というお堂がある。聖徳太子は、建築に必要な曲尺を発明したとされており、建築関係の職人たちの守本尊である。蓮馨寺の太子殿は、三島市内の職人たちが大正一一年に奈良の法隆寺から勧請した太子像を祀ったもので、五月一一日に大祭、正月と九月の一一日に小祭が行われている。

<聖徳太子自作の日限地蔵>

 日限地蔵は、本堂の左脇に安置されており、横浜と諏訪にも分祀されている。尊像は聖徳太子の自作と言われており、かつては六〇年ごとに開帳されていた。ところが、この地蔵が開帳されるたびに三島市内が大火に見舞われたため、近年は開帳されていない。高さ約七五センチの石仏で、左上から右下にかけて割れ目があるという。これは、現在の駿東郡清水町新宿に住んでいたこの地蔵の信者が、盗賊に斬りつけられた時のこと。地蔵のお札で刃が止まり、命拾いしたその者が地蔵のもとへ駆けつけると、身代わりになった地蔵の身体に刀傷がついていたことによるという。
 縁日は毎月二三日。かつてはこの日を万人講と呼び、伊豆一円から集まった三百人程の人々が、本堂に籠もって夜を明かしたという。また、現在は五月二三日の大祭も、かつては八月二三日に行われていた。その翌日が眼病に御利益があるという近くの日蓮宗本覚寺の二世、日朝上人の縁日であったため、日限地蔵の大祭で出会った男女は、そこで翌日の逢引の約束を交したという。そのため、この日限地蔵は別名を約束地蔵ともいう。信仰と娯楽が結び付いていた時代の、庶民の生活を物語るエピソードである。

ご詠歌  荒とふと法の蓮の花筏 日限て願ふ身こそ安けれ