第九五番 稲久山長谷寺(時宗) 子安(日限)地蔵尊   

沼津市千本緑町一−五

<浜の観音さん>

 稲久山長谷寺は、千本松原(沼津公園)の入り口、北隣りに位置し、小高い丘の上に建っている。
 同寺は、一般に「浜の観音さん」として知られている。本尊は秘仏で千手観音と言われるが、実際には半面が焼け焦げた自然木に近いものだという。伝承によれば、この本尊はかつて海中から出現した。ところが、それを拾った漁師が仏像だと気づかずに火の中に投げ入れたところ、火の中で明るい光が輝き出した。そこで、驚いた漁師がそれを拾い出して浜辺に置いておくと、夜毎にその場所が明るく輝いた。そのため、村人達がお堂を建てて、その仏像をお堂の中に安置したのが同寺の始まりだという。
 寺伝によれば、お堂が建てられたのは天長二年(八二五)、弘法大師がこの地を訪れた時のことで、その際に、この土地に住む牧野長者が、お浜屋敷の荘園を観音に寄進したのが現在の千本松原だという。あるいは、奈良時代に大和国に長谷寺が建立された後、全国に造営された「長谷寺」の一つとして、同寺も建立されたとも言われている。当時は七堂伽藍をそなえた大寺院であり、現在の場所は当時の護摩堂の跡地だと言われている。宗派も法相宗、真言宗を経て時宗になったというが、確かなことはわからない。山号も、かつては「千本山」と称したが、後に「稲久さん」という僧侶がこの寺に滞在したことから「稲久山」に変更されたという。ちなみに、別の古記録には寛永二年(一六二五)に天澤和尚が開創し、寛永一二年に観音堂を建立したと記されているため、江戸時代以前に衰微していた同寺を、時宗の僧侶が復興したのかもしれない。ただし、当時の建物はすべて戦災によって失われた。

〈観音曼陀羅と仏たち〉

 平安時代の末、平維盛の子の六代が、源頼朝の命によって同寺の近くで斬首された。その菩提を弔うため、寛永八年(一六三一)に小松周防守が布製の大曼陀羅を長谷寺に寄進した。その曼陀羅は既に失われたが、現在では漁業関係者等によって昭和六二年に奉納された二百畳分程の観音大曼陀羅が、毎年四月一八日前後の土、日曜日に境内に掲げられ、多くの参詣者を集めている。
 また、境内の正面にある本堂は、昭和二七年に聖徳太子を祀る太子殿として建てられたもので、正月、五月、九月の一一日には、沼津市内の建築関係者達による太子講が行われている。本堂の中央には、菊の紋章と桐紋のついた本尊の厨子が安置され、その脇に、江戸時代の作という聖徳太子像や薬師如来像が祀られている。
 一方、境内の入り口付近には、江戸時代に奉納された数々の観音供養塔や無縁墓が並んでおり、その中には明治時代に国立駿東病院を創立した杉田玄端や、元新撰組隊士の南一郎の墓も含まれている。これらの石塔の前に、臼型の石の上に坐した一体の石造の地蔵が祀られている。総高約一メートル。大正五年八月に開眼された子安地蔵で、左手に数珠をもち、右手に子供を抱いている。かつて同寺には、百地蔵の第九五番として石造の日限地蔵が地蔵堂に祀られていた。しかし、その尊像が戦災で損壊したため、現在はこの子安地蔵に代役を務めてもらっているとのことである。

ご詠歌  波の音松の響きも法の声 日限りて願う身こそ安けれ