第八番 西向山明光寺(曹洞宗)虫除地蔵尊

静岡市寺田六一番地

<明光寺と虫除地蔵>

西向山明光寺は、国道一号線の手越原交差点から、県道三六六号線を約一キロ南下したところに位置している。
 同寺の開基は竹内善五兵衛政道。おそらくこの地の有力者であっただろう。永禄一二年(一五六九)頃に、向敷地の徳願寺七世品芝宗科和尚によって曹洞宗寺院として開かれた。
 本尊は阿弥陀如来。山号は極楽浄土のある西に向かうことを表し、寺号は極楽浄土を意味する無量光明土を連想させる。もしかすると、寺自体が極楽浄土になぞらえられていたのかもしれない。あるいは、同寺はもともと竹内政道の持仏堂か庵であり、それを後に寺院とした可能性もある。ちなみに、本尊は江戸時代初期の作と伝えられており、昭和四六年に修繕された。
 虫除地蔵尊は、境内の西側にある二間四方のお堂に祀られている。高さ一三〇センチの石造りの立像で、蓮台に「奉加諸男女、寺田」「寳○年己丑七月日」と彫ってある。おそらく、宝永六年(一七〇九)に寺田村の人々が安置したものだろう。かつては村の中に祀られていたものを、後に同寺内に移したとのことである。また、地蔵の首には修復の跡がある。これは、子供たちが首にぶら下がって遊んでいるうちに、とれてしまったためだという。
 地蔵の名前につけられている「虫」とは、子供の夜泣きやかんしゃくを表す「疳の虫」。また、この地蔵は子供の成長や病気平癒、子授けなどにも御利益があるとされており、別名子授地蔵とも言われている。地蔵堂の中には、お礼参りに納められた小さな地蔵が二〇体程並んでおり、中には子授け祈願のお礼として、昭和五年に奉納された燭台もある。現在は、七月二四日の直前の日曜日に、町内の人々が集って地蔵の供養を行っている。

<手越原古戦場>

 手越から安倍川をはさんだ一帯は、室町時代の初めに四度の合戦があった場所である。元弘三年(一三三三)、鎌倉幕府が滅亡し、後醍醐天皇による建武の新政が始まった。ところが、建武二年(一三三五)、鎌倉で北条時行が反乱を起こし、同年七月、手越で足利直義の軍を撃破した。この知らせを聞いた足利尊氏は、天皇の許可を待たずに鎌倉まで攻め上り、そのまま鎌倉に留まった。そのため、天皇は新田義貞に尊氏追討を命じ、足利軍三万と新田軍八万が手越で激突した。一二月五日、一七回戦っても勝負がつかなかったが、新田軍の夜襲で足利軍は総崩れとなった。一二月一三日、両軍は再びこの地で合戦に及び、今度は新田軍が敗れて西国へ退却した。また、観応二年(一三五一)には足利幕府の内紛から、尊氏と弟の直義がこの地で合戦を行っている。これらの合戦で、鎌倉時代に宿駅として栄えていた手越は衰退した。
 現在、安倍川駅近くのみずほ公園に、手越原古戦場跡の碑が立てられている。また、明光寺の南にある化粧橋は、新田軍の本陣の置かれた場所といい、その周辺には犠牲者を祀る五輪塔が残っている。近年でも、付近の山中から当時のものと思われる人骨が見つかるという。明光寺や虫除地蔵も、もとはこうした人骨を見つけた村人たちが、その菩提を弔って建立したものかもしれない。

  ご詠歌  川を越え歩みを進む明光寺 参る人には利益あるらん 


       
           明光寺地蔵堂                    虫除地蔵尊