第八三番 瑠璃山龍興寺(曹洞宗) 延命地蔵尊   

静岡市清水区興津中町二二四

<交通の要衝と天下の景勝地>

興津は海と山に囲まれた東海道の要衝である。既に平安時代には清見関が置かれ、江戸時代には東海道第十七番の宿場町として繁栄した。また、この地は日蓮宗の総本山、身延山久遠寺へ続く身延道の出発点でもあった。しかも、この道は駿河国と甲斐国を結ぶ甲州街道の一部であり、遠く日本海側へつながる街道だった。

 その一方で、興津は古くから知られる景勝地でもあった。海岸沿いの清見潟は数々の文学や芸術作品に描かれている。さらに、明治二二年に皇太子(後の大正天皇)が海水浴のために興津を訪れると、この地には皇族や政治家、文人達が避暑に訪れ、多くの別荘が建設された。とりわけ、最後の元老と呼ばれた西園寺公望(一九四〇没)の別荘の坐漁荘には、昭和初期に数多くの政治家が訪問して「興津詣で」という言葉が生まれたほどである。

しかし、昭和三〇年代に埠頭や道路の建設が始まると清見潟は埋め立てられた。現在、興津には幾つもの私設博物館が開かれるとともに、坐漁荘も復元されて、町の歴史が語り伝えられている。

<龍興寺と延命地蔵尊>

瑠璃山龍興寺は、興津駅前から国道一号線を西へ三〇メートル程進んだところにある。

寺伝によれば、龍興寺の開創は奈良時代。行基の創建と言われている。その後、真言宗の時代を経て、慶長一〇年(一六〇五)、興津の宗徳院二世州山宗益和尚によって曹洞宗に改められた。

参道の傍らには、高さ一八〇センチ程の交通安全地蔵が立っている。この地蔵尊は交通事故死者の霊を慰めるとともに、交通安全を祈念して、昭和五〇年に清水市交通被害者連盟によって安置されたものである。また、その横には「法界衆生平等利益」と刻まれた元禄九年(一六九六)の石碑と、天明三年(一七八三)に立てられた自然石の「三界萬霊塔」が並んでいる。

龍興寺の本尊は薬師如来。山号は薬師瑠璃光如来の名前に由来する。ただし、尊像は秘仏であり、高さ一五〇センチ、幅七五センチ程の厨子に納められたまま、ほとんど開帳されることはない。厨子の前には前立ちの薬師如来が祀られており、厨子の左右には近年開眼された日光、月光菩薩と十二神将像が並んでいる。

また、本堂内の左側には、千手千眼観音や弘法大師像、「小川の地蔵」の分身とともに、以前は境内の地蔵堂に本尊として祀られていた百地蔵の第八三番延命地蔵尊が安置されている。(小川の地蔵については第二九番海蔵寺を参照。)

伝承によれば、この延命地蔵尊はかつて興津川の沿岸で見つけられたものである。ところが、どこに祀っても付近に災いが生じたため、困ったあげく、龍興寺に奉安された。すると、すべての災難が収まったという。それ以来、人々の病気を治し、多数の参詣者を集めている。尊像は光背のない石造りの座像で、左手に宝珠、右手に錫杖をもっている。台座を含む高さは約六〇センチ。毎年七月二三日に地蔵施食会が厳修されている。なお、戦前には興津桃花幼稚園が龍興寺の境内にあった。ご詠歌の中の「子どものわざ」という言葉は、その頃の園児の姿を詠んだものである。

ご詠歌  朝夕の子どものわざや楽しけれ  地蔵菩薩の願いそのまま