第八二番 嶺水山真如寺(曹洞宗) 厄除開運岩舟地蔵尊   

静岡市清水区袖師

<真如寺の略縁起>

嶺水山真如寺は、県道三三八号(清水インター線)と東海道新幹線が交差する地点の南側に位置している。

この地は、古くは嶺村川尻と呼ばれており、それが真如寺の山号の由来である。また、江戸時代には、この辺りは富士に本拠を置く曽我氏の飛び領地として、家臣の佐野氏が支配していた。

寛永年間(一六二四―一六四四)、同家に祟りをもたらした亡霊を、近くのお堂に住んでいた興津の竜雲院二世明屋玄察和尚が祈祷によって退治した。その恩に報いるため、当主の佐野行綱が開基となり、同和尚を開山として創建したのが真如寺である。

本尊は釈迦如来。脇侍として文殊菩薩と普賢菩薩が祀られている。また、本堂の前には高さ一八〇センチ程の厄除地蔵尊が立っており、山門の左脇には、天下太平などを祈念して万延元年(一八六〇)に建てられた「金光明一千部供養塔」が残されている。

ところで、真如寺には明治時代の初めに(えんちじゅく)という寺小屋があった。は、同寺の南にある袖師小学校の前身である。現在は境内に嶺保育園があり、子供たちの歓声が響いている。

<岩船地蔵鎮座の由来>

 宝暦三年(一七五三)、この辺りで海難が相次ぎ、さらには麻疹が流行して死者が続いた。その時、真如寺六世桂岩祖林和尚の夢に岩船地蔵尊が現れて、病苦を救おうと告げられた。ちなみに、岩船地蔵は下野国(栃木県)岩船山にある高勝寺の本尊である。宝亀八年(七七七)、伯耆国(鳥取県)から来た弘誓坊明願が、夢の御告げにしたがって、古くから死者の魂が集まる場所として知られる岩船山の山頂で、この地蔵尊の生身の姿を礼拝したのが始まりだと言われている。

 さて、夢のお告げを受けた桂岩和尚は、翌朝海岸を捜し回り、蒲原の海辺で地蔵尊を見つけた。そこで、真如寺から東南へ約五〇〇メートル、現在は東海道本線の線路脇にある「浜のお堂」に祀り、三〇日間の法要を行った。すると、海は鎮まり、疫病もただちに収まった。

その後、嘉永年間(一八四八―一八五四)に再び災厄が相次いだ時、人々は地蔵尊を乗せるための船を造って法要を行った。この時も、地蔵尊の御利益はあらたかだったという。しかし、お堂の前を馬に乗って通る者の落馬が続いたため、これは地蔵尊の祟りだということになり、地蔵尊は真如寺の境内の地蔵堂に遷された。やがて、このお堂には金刀比羅宮も合祀されたが、明治初年の神仏分離の際に、このお堂は神社に変えられてしまった。そのため、地蔵尊は本堂に遷されて、後に位牌堂に祀られた。

 現在、大海原を模した位牌堂の須弥壇の中央に、全長一五〇センチ程の千石船の模型が置かれている。その上に、高さ五〇センチ程の厨子が乗せられており、地蔵尊はその中に、脇侍の掌善童子や掌悪童子とともに安置されている。左手に宝珠、右手に錫杖をもつ木製の座像で、総高約二五センチ。様々な災難や事故を除き、五穀成就や福寿長久、人生開運などの御利益があることから、厄除開運地蔵とも呼ばれている。かつての縁日は六月二四日だったが、現在は九月の彼岸前後の休前日を縁日として、嶺保育園の行事を兼ねて盆踊りや万灯供養、花火大会などが行われている。

ご詠歌  ありがたや音に聞こえし岩船の  救いに乗りて弥陀の浄土へ