第八〇番 月華山珠林寺(臨済宗妙心寺派) 延命地蔵尊
静岡市清水区渋川五四四
<珠林寺の開創と入江春倫>
月華山珠林寺は、国道一号線の渋川三丁目と渋川東の交差点の中間にある小路を、南へ少し入ったところにある。
伝承によれば、南北朝時代(一四世紀)、現在の清水第八中学校の辺りに入江左衛門尉春倫の館があった。春倫は、その館の東北にあたる現在の珠林寺の場所に、鬼門除けの寺院を創建して春倫寺と名付け、自らの菩提寺にしたという。この春倫寺は真言宗の寺院で久能寺の末寺だったが、文禄元年(一五九二)、星庵和尚が臨済宗に改宗し、寺号も珠林寺に改めた。
同寺の周囲に、かつては堀が巡らされ、堤が築かれていた跡があったというが、今ではその名残はない。また、明治時代に同寺の周りを開墾した際に、古い五輪塔などが発掘されたという。
ところで、春倫の祖先は、天慶三年(九四〇)に反乱鎮圧のために駿河国に下り、この地に住み着いた藤原為憲、時理の親子と推定される。為憲から数えて六代目の維清が入江氏の祖であり、彼は保元の乱(一一五六)で源義朝に従っていたことが『保元物語』に述べられている。また、正治二年(一二〇〇)には入江一族が梶原景時を討ったことが『吾妻鑑』に記録されている。
一方、春倫は入江庄の地頭であり、建武二年(一三三五)、鎌倉幕府を倒した足利尊氏の弟の直義が京都に戻る際に、薩埵峠でその護衛をしたことが『太平記』に記されている。ただし、春倫はその後、足利氏とは袂を分かって後醍醐天皇の南朝方に属し、宗良親王やその子の興良親王に忠勤を尽くしたと言われている。
<ショッテケ地蔵と延命地蔵>
珠林寺の山門を入ると、右側に一体の地蔵尊が祀られている。高さ一メートル程の石仏で、光背に「三界万霊有縁無縁〇」と記されたこの地蔵尊は、もとは珠林寺から北脇へ行く道の傍にあったという。伝説によれば、ある時、近くの庄屋が結婚式から帰る途中、ほろ酔い気分でこの地蔵尊の所まで来ると、「ショッテケ、ショッテケ」という低い声が聞こえてきた。そこで、庄屋が土産の料理をその場に置いて地蔵を背負って歩きだすと、今度は「オイテケ、オイテケ」という声がする。そこで、地蔵を降ろして振り返ると、地蔵の姿が見当たらない。不思議に思って来た道を引き返すと、地蔵はもとの場所にあり、料理だけがなくなっていた。そのため、庄屋は狐にだまされたことに気がついた。それ以来、この地蔵は「ショッテケ地蔵」と呼ばれるようになったという。
一方、延命地蔵尊はかつての同寺の本尊だったもの。現在は本尊の座を平成四年に開眼された出口翠豊師の作の釈迦如来坐像に譲り、位牌堂の中央に祀られている。台座と光背を含めた高さが約七〇センチ。両手で宝珠を捧げ持つ木造の小さな坐像である。
ちなみに、この地蔵尊に関しては、明治時代に白翁床雪和尚(一八八五没)が開眼供養を行ったという記録が残されている。ただし、同寺の本尊は、江戸時代から地蔵尊だったことが種々の記録から明らかである。それどころか、南北朝時代は武将の間で地蔵信仰が盛んになった時期である。そうだとすれば、珠林寺では草創期の春倫寺の時代から、地蔵尊が本尊だったと考えることもできるだろう。
ご詠歌 珠持てる地蔵菩薩の願深し 多くの人に利益与えん