第七番 小森山泉秀寺(曹洞宗)延命地蔵尊
静岡市向敷地九番地
<泉秀寺草創の由来>
小森山泉秀寺は、安倍川橋から県道を西へ約五百メートル進んだところを右折すると、その奥に位置する。
同寺の草創は、過去帳の序文によれば寛正六年(一四六五)、開基は静岡市沓谷にある長源院の開山、覚山見知和尚のようである。覚山和尚は常陸国(茨城県)の出身で、若い頃に諸国をめぐり歩いた。そして、現在の泉秀寺の辺りにしばらく留まり、当地の人々に仏教の戒法を説いたという。これが泉秀寺の草創とされているのだろう。また、この周辺は後に説戒と呼ばれたという。
その後、同和尚は当目(焼津市浜当目)の虚空蔵菩薩のもとで夏の間百日間参籠した。そして、お告げにしたがって常陸国に戻り、一寺院を再興した。約十年後、同和尚は再び駿河国に帰り、長源院を開創し、大永三年(一五二三)に亡くなった。
永禄二年(一五五九)、長源院二世勅特賜仏智法秀禅師厚福栄琳和尚が、覚山和尚にゆかりの地に泉秀寺を開いた。山号は、本寺長源院の大森山に対して、泉秀寺は小森山である。
本堂裏の墓地には、花崗岩造りで幅三メートル程の釈迦三尊像が祀られている。これは平成一四年に立てられた有縁無縁塔で、その後ろに「松木新齋之妻、田中氏正儒人之墓」と刻まれた古い石塔がある。松木家は、江戸時代初期に紀伊国屋文左衛門と並び称された豪商。新齋はその三代目、彼の息子で五代目の新左衛門の時に松木家の繁栄は頂点に達した。しかし、新左衛門は後に莫大な借財を抱え、松木家は七代目で断絶した。承応二年(一六五三)に亡くなった新齋の妻、マサの墓だけが、なぜ泉秀寺にあるのかはわからない。ちなみに、松木家の跡は番頭伝八が継ぎ、後の伊豆屋伝八、世に言う「伊伝」家のもとが築かれた。
<木喰仏と地蔵尊>
泉秀寺の本尊は聖観音菩薩。高さ一メートル程の木製の座像で、室町時代の作と伝えられている。
また、本堂の西の間には、木喰五行上人が製作した二体の仏像が安置されている。子供を抱く子安観世音菩薩立像と、大きな袋を左肩にかけて米俵の上に立つ大福大黒天立像で、高さはそれぞれ九一センチと八九センチ。材料には同寺裏山の楠が用いられたようである。いずれも、裏側に自筆の署名がある。
同上人は甲斐国(山梨県)西八代郡の農家、伊藤六兵衛の次男。二二歳で出家し、四五歳の時に、火で調理したものや五穀を避け、木の実だけを食べる木喰戒を受けた。さらに、五六歳頃から廻国巡礼を始め、六〇歳代で仏像の製作を開始。文化七年(一八一〇)に九三歳で亡くなるまでに、千体以上の仏像を残したという。
同上人が泉秀寺に滞在したのは寛政一二年(一八〇〇)八月一八日から九月一日まで。その間の二二日と二三日にそれぞれ一体ずつを製作した。上人が八三歳の時のことである。
延命地蔵は山門左脇の地蔵堂に、他の地蔵一体と観音二体とともに祀られている。由来などは伝えられていない。石造りの坐像で、高さは台座を含めて約一、一メートル。丁寧に彫られた穏やかな尊像である。
ご詠歌 子供より乳母にいたるも皆慈悲を 授けて法を照らす菩薩よ