第七九番 紫雲山法岸寺(浄土宗) 厄除延命地蔵尊   

静岡市清水区入江南町三―三三

<法岸寺と地蔵尊>

 紫雲山江照院法岸寺は、静鉄電車の入江岡駅から北へ約三〇〇メートルのところにある。

 同寺の開山は寂蓮社得誉源阿然公上人。過去帳の記録によれば、延徳二年(一四九〇)三月、同上人に帰依した今川一族の者が、母の追善供養のために同寺を創建したという。だが、戦時中に供出された梵鐘の銘文によれば、法岸寺の草創は文亀元年(一五〇一)。当初は江照寺という名前で、上土村にあったという。ただし、入江を照らすという意味の寺号から察するに、「上土村」は現在の葵区上土ではなく、法岸寺の現在地に近い高台と考えた方が妥当だろう。

 その後、同寺は一時荒廃したが、寺地を現在地に移した上で、寛永九年(一六三二)、後に五代目御船手頭となる細井佐次右衛門の妻の宿願によって再興された。一五世光蓮社蒙誉上人の時のことである。(御船手頭については第七八番油木地蔵堂を参照。)

法岸寺は、享和三年(一八〇三)の火災と昭和二〇年七月七日の清水空襲で二回全焼した。だが、これらの火災をくぐり抜けた樹齢五〇〇年程の大楠が、今も同寺の裏庭で枝を張っている。

本尊は阿弥陀三尊。中央の阿弥陀如来は戦火の中を救い出された尊像で、春日仏師の作と伝えられている。

一方、法岸寺は古くから「地蔵の寺」として知られており、戦前には行基の作という地蔵尊が祀られていた。この尊像は高さ約一五〇センチの木製立像だったというが、戦災で焼失した。現在、位牌堂に安置されている厄除延命地蔵尊は、昭和の大仏師、松久朋琳師の晩年の作。左手に宝珠、右手に錫杖をもつ高さ約八五センチの木製の立像である。また、位牌堂には、法琳師の息子で、同じく大仏師の松久宗琳師が刻んだ観音菩薩も祀られている。

<「朝顔日記」と「でっころぼう」>

 法岸寺の現在の本堂は能楽堂を模した建物で、中央に三・五間四方の舞台がある。平成九年に建てられたこの本堂を利用して、同寺では一年に数回、様々なコンサートを行っている。

 また、本堂の左脇の墓地には、高さ二四〇センチ程の、正廣院殿永安種慶大姉(一六四二没)の墓がある。彼女は日向国(宮崎県)延岡城主、高橋元種の娘だが、元種が領地を没収されたため、同国財部藩主、秋月種長の養女になった。しかし、今度はお家騒動に巻き込まれ、一時は大阪で琴を弾いて暮らしていた。その後、縁あって四代目御船手頭の山下彌蔵の妻となった。その数奇な生涯のため、浄瑠璃「生写朝顔日記」の主人公、深雪のモデルになった女性である。諸国を放浪する途中で視力を失った深雪が、物語の最後に奇跡的に視力を回復したことにちなみ、かつては、この墓に参詣すれば眼病が平癒すると言われていた。

ところで、法岸寺の参道の前に、「でっころぼう」を扱う「いちろんさん」という店がある。「でっころぼう」は、江戸時代に人形師堀尾市郎右衛門が作り始めた首人形。保元の乱(一一五六)で敗れた源為朝が、清水港から伊豆大島に流されたという伝承から、子供が為朝のように健やかに育ち、夜泣きが治ることを願った縁起物でもあった。法岸寺の周辺は、今も隠れた文化の里である。

ご詠歌  櫂の岸ぐぜいの船のいでぬまに  乗り遅れずといそげみなひと