第七八番 油木地蔵堂 油木地蔵尊
静岡市清水区淡路町
<油木地蔵尊>
油木地蔵堂は、静鉄電車の入江岡駅から西へ約百メートル、めぐみ幼稚園の裏にある。かつては入江南町の法岸寺に属していたが、今は淡島町公民館として用いられている。
伝承によれば、いつの頃か、この辺りに住む右衛門という人が熱病に冒された時、夢枕に地蔵尊が立ち、自分は今、法岸寺の竹やぶに埋まっているから掘り出して欲しいと語った。そこで、竹やぶの中を探すと石の地蔵尊が現れたため、お堂を建てて尊像を祀ったという。この尊像は高さ二メートル程あったというが、自然石に近いものだったのかもしれない。
しかし、この地蔵尊は戦災で砕けてしまった。そのため、古い尊像の破片を土中に埋める一方で、昭和二六年、現在の地蔵堂を建立して新しい尊像を安置した。現在の尊像は石造の立像で、高さ六八センチ。両手で宝珠を捧げ持つ姿をしており、土台に「観音講一同」と刻まれている。
ところで、この地蔵堂の境内に、かつて高さ六メートル程の油桐(毒荏)の木があった。そのため、地蔵尊は「油木のお地蔵様」と呼ばれるようになった。ちなみに、油桐は五、六月頃に花が咲いて実を結ぶ。その実から取れる油を、明治時代以前には灯火に用いたが、電気の普及とともに油桐は一般に栽培されなくなったという。
縁日は七月二三日。かつては地蔵堂に続く道沿いに多数の屋台が並び、地蔵堂では夜更けまで踊りやお籠りが行われたという。今も毎月二三日には、町内の人々がご詠歌を奉納している。
<旧「入江町」と御船蔵>
油木地蔵堂のある淡島町も含め、旧「入江町」が歴史上に初めて登場したのは享禄五年(一五三二)、今川氏輝がこの地と江尻に宿場を開いた時である。当時、この地は七日市場、江尻は三日市場と呼ばれていた。七日市場には諸国からの船の発着所や荷揚げ場、それに、今川氏の休息所があり、大いに賑わっていたという。
今川氏の没落後、この地を治めた武田氏や、天正一三年(一五八五)に一大名として駿府城に入った家康は、旧「入江町」の辺りに御船蔵を設置した。しかし、その具体的な場所はわからない。
その後、慶長一二年(一六〇七)、大御所として駿府に戻った家康は、同年、現在の清水区村松に御船蔵を建造した。この蔵には家康の御座船の長永丸や、家康の死後、駿府城主となった徳川頼宣の御座船の大廣丸が保管された。さらに、元和五年(一六一九)に頼宣が紀州に移ると、翌六年(一六二〇)には御船蔵と御船手頭の役宅は七日市場に移されて、それぞれ現在の千歳町と浜田町に置かれることになった。また、御船手頭には旗本が任じられた。その中には法岸寺にゆかりの人々も含まれている。
だが、元禄九年(一六九六)、御船手頭の役職は廃止となり、同一二年(一六九九)には御船蔵も取り壊された。その後、これらの跡地は田畑となり、港としての賑わいは失われることになった。
ちなみに、七日市場が入江町と改名したのは天和元年(一六八一)。代官の古郡文右衛門の指図によるという。そして、大正一三年、入江町は江尻町や清水町などと合併して旧清水市が誕生した。
ご詠歌 尋ね来てこれが入江の地蔵尊 お慈悲のみ手に助けたまうぞ