第六番 金剛山東林寺(曹洞宗)オハラゴモリ(延命子安)地蔵
静岡市向敷地一四四番地
<手越の灸>
金剛山東林寺は、桜山をはさんで心光院の裏手に位置する。県道二〇八号線から高林寺の前で脇道にはいり、三百メートル程進んだところである。(一方通行のため、車は迂回する必要がある。)
同寺は古くから「手越の灸」で名高い。この灸の由来は鎌倉時代にさかのぼる。当時、幕府執権であった北条氏の御殿医を代々勤めたのが三浦氏であった。その子孫の三浦三郎藤原光義が、戦国時代の最中、一五〇〇年頃に現在の東林寺の場所に移り住んだ。そして、屋敷を養老庵と名づけ、弘法大師伝来という家伝の灸術を近隣の人々に施した。やがて、その名声は近郊に伝わり、駿河の焼判、手越の名灸と称えられるようになった。「駿河の人にして、この灸痕なき者なし」と言われる程の人気であったという。
延宝年間(一六七三−一六八一)、七代目三浦三郎は自らが開基となり、向敷地の徳願寺一二世賢巌太佐和尚を開山として招き、養老庵を曹洞宗寺院に改めた。そして、灸法を住職に伝授し、それを世のために代々伝えることを託して自らは富士山麓に移住した。以来、東林寺では歴代住職がこの灸法を伝えている。
昭和四九年七月七日、同寺では山門を除く諸堂が、七夕豪雨による山崩れによって大破した。現在の本堂はその後に再建されたものである。本堂の中には、畳三枚分程の大きさの漆喰絵(コテ絵)の一六羅漢図が掲げられている。これは昭和七年に森田鶴堂が作成したもので、七夕豪雨の後に修復された。また、この修復を行った鈴木宗英による一二枚の漆喰絵の干支図も本堂内に飾られており、山門壁面には森田鶴堂の漆喰装飾が施されている。
<オハラゴモリの地蔵さま>
東林寺の参道の入り口には、門標と向かい合わせに、子捨橋の地蔵と呼ばれる小さな地蔵が石造の祠に入って祀られている。伝承によれば、その昔、この地の殿様が不在の間に、その奥方が懐妊した。ところが、月満ちて生まれてきたのは手だけであったため、殿様はその手を町屋川の橋の下に捨てた。後に旅の虚無僧が橋のかたわらに祀り、供養したのがこの地蔵であるという。
また、参道を進んで山門にたどりつく直前に、高さ五メートル程の平和観音が祀られている。これは平成一三年に、新世紀を迎えた世界の平和を祈念して安置されたものである。
オハラゴモリ地蔵、別名延命子安地蔵は同寺の本尊である。本堂の須弥壇正面の厨子に納められており、ふだんは幔幕の後ろに隠れている。尊像は台座を含めて高さ約五〇センチ。木製の座像であり、左手に宝珠、右手に錫杖をもつ。この地蔵の特徴は「お腹籠もり」の名のとおり、胎内に高さ約三〇センチの地蔵立像を納めていることである。このことが子安(子授け、安産)信仰につながったのだろうが、地蔵の縁起は伝えられていない。
オハラゴモリ地蔵は、胎内仏、および外側の根本仏ともに、地肌には金箔が押され、衣服は黒地に切金細工が施されている。江戸時代中期の作と伝えられているが、あるいは同寺開創時からの本尊かもしれない。七夕豪雨の際には土砂の中から掘り起こされたにもかかわらず、厨子に守られてほぼ無傷であったという。
ご詠歌 ありがたやオハラゴモリの地蔵尊 生死ひとえを助けたまえや