第六〇番 安西五丁目地蔵堂 川除延命地蔵尊

静岡市安西五丁目

<秋葉山詣でと安倍川越え>

 安西五丁目地蔵堂は、安西橋の東側のたもと、国道三六二号線(安西通り)の北側に面して建っている。
 この国道三六二号線は、安西から羽鳥、藁科、清沢、川根を経て春野町の秋葉山に通じており、かつては「静岡春野天竜線」と呼ばれていた。秋葉山は火伏せの神として名高く、そこへ通じる街道沿いには、秋葉山に献灯された常夜灯が各地に残されている。安西五丁目の地蔵堂の境内にも、嘉永元年(一八四八)一一月に再建された常夜灯が建っており、これは馬場町の赤鳥居の脇にある常夜灯と同型のものである。
 ただし、江戸時代には安倍川に橋が架かっていなかった。そのため、秋葉山に参詣する人にとっても、安倍川越えは難所の一つだった。川除延命地蔵は、江戸時代の中頃、秋葉神社へ参詣する旅の途中で倒れたり、安倍川を渡る途中で流されて命を落とした人を弔うために祀られたと言われている。同時に、安倍川の度重なる氾濫に苦しめられた地元の人々は、この地蔵に川除け、水害除けの祈願を行った。こうして、地蔵に対する信仰は深められたのである。ちなみに、現在の安西橋の場所には、明治七年に「稚児橋」という仮橋が初めて架けられ、その後、明治三二年になって本格的な木橋が建造された。

<再建された地蔵堂>

 川除延命地蔵は、もともと現在の位置に祀られていたが、明治時代以後に通りの南側にうつされて、土手の上に東向きの地蔵堂が建てられた。当時のお堂は間口二間程で、地蔵も木像だった。
 しかし、昭和二〇年、空襲によって古い尊像と地蔵堂が焼失した。そこで昭和二六年、現在地に間口四間、奥行三間からなる南向きのお堂を建てて、石造りの尊像を安置した。尊像は高さ一二〇センチ程の立像で、左手に宝珠、右手に錫杖をもっている。
 地蔵堂の中には、この川除延命地蔵を中心に、左右に一体ずつの地蔵が祀られている。向かって左側の地蔵は石造りの坐像で、高さ約七〇センチ。摩滅が進んでいて古さを感じさせるが、由緒などはわからない。一方、右側の地蔵は高さ八五センチ。裏面に「昭和廿二年八月之建」と刻まれている。この地蔵は、空襲の際にこの近くに墜落して死亡したB二九の搭乗員を弔うためのものである。遺体は地蔵堂の境内に埋葬されたといい、お堂が再建されるまでは、地蔵の隣に小さな石が置かれていたという。
 この地蔵堂は安西五丁目の町内会が守っており、毎月九日と二四日にはご詠歌の奉納が行われる。言い伝えによれば、かつては子供が笛や太鼓を鳴らす「ドンチャカ」が行われていたという。大祭は八月二四日。この日には、安西四丁目の大林寺住職による読経が行われるほか、夕方には屋台が立ち並び、参拝者の行列が連なる。また、戦後間もない頃までは、大祭の日に子供の相撲大会や踊りの披露などが行われたというが、平成七年からは二台のみこしが町内を練り歩き、太鼓の演奏が行われるようになった。
 なお、現在、安西橋の拡幅工事が計画されており、そのために地蔵堂の移転も予定されている。

 ご詠歌 ありがたや力を添えて地蔵尊 願いし事のかなわぬはなし