第五六番 安養山西蔵寺(臨済宗妙心寺派) 地蔵尊
静岡市葵区片羽町七九
<西蔵寺と浅間神社>
安養山西蔵寺は、浅間神社の赤鳥居から西へ約百メートル、県道二七号線の西側に、浅間神社の方角を向いて立っている。
同寺の開山は仙龍宗義和尚(一六三五没)。同和尚は現在沓谷にある少林寺を開山した後、西蔵寺を開き、同寺で没したという。ただし、この二つの寺は、いずれもそれ以前から遠州の奥山方広寺の末寺として存在していた。一方、仙龍和尚は臨済寺の配下の僧であり、「仙龍」の名前は寛永六年(一六二九)に臨済寺五世千巌和尚から与えられたものである。それ故、仙龍和尚は両寺にとって、臨済寺の末寺としての開山だったことが窺われる。
また、それに先立つ元和二年(一六一六)四月、徳川家康の葬儀の際に、その一切を仕切った神龍院梵舜が宿所としたのが西蔵寺だった。しかも、梵舜は同年六月に駿府に立ち寄った際にも西蔵寺に宿泊し、家康の葬儀で用いた絹や幕等を同寺で受け取ると、それを数名の人々に分配したことが彼の日記(舜旧記)に記されている。(梵舜については、第三三番神龍院を参照。)
ところで、西蔵寺は慶長一四年(一六〇九)に現在地に移転するまでは宮ケ崎町にあったという。宮ケ崎町は、慶長一四年前後に行われた駿府の町割り(都市整備)で浅間神社の社領から開放されたのに対して、移転先の片羽町は、それ以後も浅間神社の社領とされた。このことは、西蔵寺と浅間神社の結び付きを示しているように思われる。事実、江戸時代には西蔵寺の両側に神社の関係者の屋敷が並んでおり、神主の新宮家で行われる心経会には西蔵寺も関わっていたことを『駿河志料』が伝えている。
西蔵寺の本尊は地蔵菩薩。同寺の寺号や山号の由来は定かでないが、「西蔵寺」という寺号は、浅間神社の西の、地蔵を祀る寺という意味かもしれない。一方、山号の「安養」という語は、阿弥陀仏の西方極楽浄土を表す言葉だが、同寺に阿弥陀仏は祀られていない。むしろ、大日如来と観音菩薩が本尊の脇侍として祀られているが、その由来も不明である。
<静岡空襲と被災地蔵尊>
戦前の西蔵寺には、本堂とは別に地蔵堂と観音堂があり、そこには本尊や脇侍とは別の地蔵尊や観音像が祀られていた。百地蔵の第五六番地蔵尊はこの地蔵堂の地蔵であり、行基の作と言われていた。西蔵寺は駿府の町の北の境界上に位置していたため、この地蔵尊は町の境界を守る存在だったのかもしれない。しかし、西蔵寺は昭和二〇年の戦災で全焼し、これらの仏たちも焼損した。
今日、同寺ではそれらの地蔵尊と観音像を復興し、二階にある本堂の真下、一階の駐車場の正面奥に安置している。観音像は新鋳した十一面千手観音の座像。一方、地蔵尊は戦災で頭から右肩の部分を失い、胴体も四つに割れていた尊像を修復したもので、平成一七年、戦災復興六〇年を記念して開眼供養が行われた。高さは約九五センチ。左手には新たに補修された宝珠をもち、右手には当初からの錫杖をもつ石製の立像である。現在、西蔵寺ではこの地蔵を「被災地蔵尊」と呼び、戦争の語り部とするとともに、静岡空襲があった六月一九日を地蔵尊の縁日としている。
ご詠歌 立ち寄りて拝めよ地蔵大菩薩 六つのちまたの道明らかに