第五四番 城久山安西寺(時宗) 延命子安地蔵尊   

静岡市葵区丸山町二三

<安西寺の現在地にあった福田寺>

城久山永命院安西寺は、賤機山の東側の麓に位置し、浅間神社の石鳥居から北に〇〇メートル程の所にある。

ここには、かつて安西寺の末寺の秋月山福田寺があった。慶長四年(一五九九)、鷹狩りの際にこの地で休息した徳川家康が、京都の円山の景色に似ているとの理由で、後藤庄三郎光次に円山寺を移すことを命じた。そこで、光次は円山安養寺の僧、徳陽軒を招いて福田寺を開創した。これが「丸山町」の名前の由来である。

さらに翌年九月一三日、福田寺を訪れた家康は、寺の後ろの山麓から清水が湧いているのを見て、「松高き丸山寺の流の井いくとせすめる秋の夜の月」という和歌を詠んだ。「丸山寺秋の月」と題するこの歌が「秋月山」という山号の由来であり、この歌を後藤光次が書き留めたものが現在も安西寺に残されている。また、家康はこの清水の鎮守として弁財天を奉納したとも伝えられている。ちなみに、清水は今も境内に湧いており、傍らには宝暦三年(一七五三)にこの事績を刻んだ「流井の碑」が立てられている。

なお、後藤光次は家康から貨幣の鋳造を任された人物で、現在の葵区金座町に屋敷があった。光次は江戸浅草の誓願寺に葬られたが、安西寺にも光次と息子の廣世の供養塔が残されている。

<安西寺の地蔵尊>

安西寺は文保元年(一三一七)、遊行三祖智得上人の弟子の覚阿智達上人によって開創された。かつては馬場町、現在の中町交差点の西側にあり、室町時代以前には中町の辺りを流れていた安倍川の西側にあったことから、「安西寺」と名付けられたと思われる。

当時の安西寺の本尊は、行基作という等身大の地蔵尊であった。寺伝によれば、奈良時代に聖武天皇の病気平癒を祈願して、行基が駿河国足久保の楠で七観音を作ったところ、天皇の病気が回復した。そのお礼として、行基が唐木で作ったのがこの地蔵である。だが、『駿河志料』によれば、この地蔵は平安時代後期に駿河守に任命された源貞宗が、護持仏として運んできたものであるという。

その後、この地蔵は駿府城二の丸に祀られていた守護神愛宕権現の本地仏(本来の姿)とみなされ、同寺は駿府城の武運長久の祈願所になった。「城久山」という山号の由来であり、境内には家康から贈られた妹背石や、家康お手植えの佗助椿があったという。

やがて、この地蔵は日限地蔵として人々の信仰を集めるとともに、延命子安地蔵として安産祈願の対象にもなった。また、戦時中には兵士の無事を祈る女性達が、自らの髪を奉納したという。

明治三〇年、山崩れで福田寺が大破し、間もなく安西寺も火災で焼失した。そこで明治四二年、福田寺を安西寺に合併し、安西寺を現在地に再興した。本尊は旧福田寺本尊の阿弥陀三尊である。

一方、旧安西寺本尊の地蔵尊は境内の地蔵堂に祀られており、両脇に弘法大師と観音像が安置されている。ただし、地蔵尊は火災で焼け焦げたため、布に巻かれて厨子に納められている。堂内にはお礼参りの人々が奉納した数万体の小さな地蔵が隙間なく並び、壁や天井には数多くの絵馬や提灯が吊るされて、信仰の厚さを物語っている。縁日は毎月二四日、大祭は七月二四日である。

ご詠歌  城やすく治まる御代のこの寺の  地蔵の袖に頼らぬはなし