第五二番 花屋山富春院(臨済宗妙心寺派) 墨崎延命地蔵尊
静岡市葵区大岩本町二六−二三
<富春院と中村正直>
花屋山富春院は、賤機山の東側の麓に位置している。城北公園の南端付近で、麻機街道に面して立つ朱塗りの山門が目印である。
同寺は天文五年(一五三六)三月か同七年(一五三八)二月に、後奈良天皇の師である大休国師の弟子、温渓球和尚によって開創された。開基は富春院殿一輪常心大居士と花屋院殿陽岳妙春大姉。寺号と山号はこの二人の法名に由来するが、その俗名や没年等は伝わっていない。おそらく、今川家にゆかりの夫婦だろう。
永禄一一年(一五六八)、武田信玄の駿府侵攻の際に富春院も全山を焼失。延宝年間(一六七三―一六八一)に、臨済寺の南印和尚と快山和尚が同寺を復興した。明治時代には、妙心寺派の雛僧学校(僧侶の養成所)が同寺に置かれたこともある。本尊は阿弥陀如来。同寺が再興された時に安置された尊像と推定されている。
ところで、富春院の山門の前に「尚志」と書かれた石碑がある。これは、明治初年に同寺の北隣に住んでいた中村正直(敬宇)を記念して建てられたもの。正直は江戸幕府の儒者で、慶応二年(一八六六)にイギリスに留学。明治元年(一八六八)に帰国後は、徳川家が移封された駿府に住み、静岡学問所一等教授となった。明治三年、彼はこの地で『西国立志編』を著し、翌年にはJ・S・ミルの『自由之理』を翻訳して出版。明治五年、東京に戻ると私塾同人社を開き、後に東京大学教授を務めた。明治二四年没。富春院には高さ五〇センチの「敬宇院殿正直日法大居士」の位牌が祀られており、山門には彼が揮毫した山号の額が掲げられている。
<今川義元と地蔵尊>
富春院の北側には、かつて陽光山天澤寺という寺があった。これは、永禄三年(一五六〇)に桶狭間で敗死した今川義元の菩提を弔うため、同年、今川氏真の命によって臨済寺三世東谷宗杲和尚が開いた寺である。義元の亡骸は、家臣の岡部五郎兵衛が戦場から持ち帰った。その墓の上に天澤寺の本堂を建て、義元の木像を本尊として祀ったという。だが、後に同寺は衰退し、文化八年(一八一一)には木像を臨済寺に移し、本堂は解体された。さらに、明治二四年には墓も臨済寺に移して同寺は廃絶した。
現在、富春院には「天澤寺殿四品禮部侍即秀峰哲公大居士位」と記された高さ五八センチの義元の位牌が祀られている。これは、もとは天澤寺に安置されていたものかもしれない。また、墓地の一角には、近年建てられた「今川義元公慰霊塔」がある。
墨崎延命地蔵尊は、山門を入って右側の地蔵堂に祀られている。寺伝によれば、ある時、義元が陣中で熱病に苦しんでいると、夢枕に地蔵尊が現れた。そこで、地蔵を彫らせて祀ったところ、にわかに病気が癒えたという。その後、この地蔵は墨崎(臨済寺付近)に雨ざらしで祀られていたが、いつの頃か、富春院に移されて地蔵堂に安置された。戦前までは、病気の回復に御利益があるとして、多くの参詣者が訪れたという。尊像は高さ約八〇センチ。石造りの立像で、左手に宝珠、右手に錫杖をもつ。光背の周囲が欠けており、顔面も摩滅が進んでいる。また、光背の右側には文字が刻まれているが、判読するのは困難である。
ご詠歌 かかる世にうれしや生まれ大岩の 松吹く風も実りなるらん