第五〇番 龍頭山国分寺(真言宗) 経読地蔵尊
静岡市葵区長谷町一〇
<国分寺の盛衰>
龍頭山国分寺は、浅間神社の石鳥居から東へ約四〇〇メートル、静岡高校と長谷通りにはさまれた住宅街の中にある。
同寺の創建は、奈良時代に全国に置かれた国分寺にさかのぼると推定される。駿河国分寺の当初の位置については、現在の駿河区大谷の片山廃寺跡と、長谷通り周辺という二説がある。だが、一〇世紀頃には国分寺が長谷通り周辺にあったことは古記録からうかがえる。また、貞観一四年(八七二)には国分寺別堂に大蛇が現れ、経典を飲み込む事件が起きた。朝廷での占いの結果、これは翌年、駿河国で火災や疫病が起こる凶兆だとされたという。
弘治二年(一五五六)、駿府を訪れた山科言継が「国分寺之薬師」を参詣しているが、永禄一一年(一五六八)、駿府に侵攻した武田信玄が国分寺を焼き払った。その際に、鉄製の丈六(約四・八メートル)の本尊は鋳潰され、残った頭部は池に捨てられたという。
慶長一五年(一六一〇)、徳川家康が国分寺を再興し、本尊には池から掘り出された丈六仏の頭部と、行基作という木製の薬師如来が祀られた。家康はこの本尊を尊崇し、たびたび同寺を訪れたという。当時の山号は寺の後ろに大きな池があったことにちなみ、「龍池山」とされていた。また、国分寺は浅間神社の付属寺院(社僧地)として、同神社の修理の際にはあわせて修繕されたという。
しかし、明治時代になると浅間神社と国分寺の関係は解消されて、同寺は事実上の廃寺となった。本尊は音羽町の清水寺に遷座され、伽藍の多くは安東小学校の校舎として用いられた後に取り壊された。そして、あとには地蔵尊のお堂だけが残された。そのお堂を中心に、国分寺が復興したのは昭和六〇年のことである。
<家康の手洗い鉢にされた地蔵尊>
経読地蔵尊は、現在の国分寺の本尊である。石造りの立像で、高さ約二八〇センチ。本堂の中央に安置されているが、下半身は須弥壇の下に隠れている。また、身体には火災に遭った跡があり、左手には錫杖をもっているが、右手や顔面の一部は剥離している。
この地蔵の台座の裏には水鉢が彫られている。これは、江戸時代の初め頃、この地蔵が駿府城内で逆さまの状態で土の中に埋められて、徳川家康の手洗い鉢にされていたためだという。ところが、夜毎に経を読む声がするので掘り返したところ、地蔵の尊像が現れた。そこで、浅間神社の馬場の別当がこの「経読地蔵」をもらいうけ、馬場にお堂を建てて安置した。お堂と尊像は、明治時代の初めに現在の場所に移されたが、現在地に移ってからも、午前二時頃になると地蔵が経を読む声を聞いた者がいたという。
また、駿府に疱瘡が流行して多くの子供が亡くなった時、浅間神社の馬場の地蔵は子供を守ってくれるという噂が流れ、人々が願かけに訪れた。やがて疱瘡の流行が鎮まると、地蔵の供養が盛大に行われ、この地蔵は「子安地蔵」とも呼ばれるようになったという。国分寺の境内には、今も「疱瘡守護薩〇」と記された安永六年(一七七七)の石塔が残されている。その他、この地蔵にお願いすれば、おこりや歯痛等もすぐに治るとも言われている。縁日は毎月一、一六、二四日、大祭は八月二三、二四日である。
ご詠歌 経文を読みて楽しむ地蔵尊 多くの人も利益受けなむ