第四九番 瑞光山天昌寺(曹洞宗) 厄除地蔵尊
静岡市葵区上足洗四丁目九―四五
<上足洗の厄除地蔵>
瑞光山天昌寺は、静岡市立高校の西側の住宅街の中にある。
同寺は寛永三年(一六二六)、観室怡和尚が沓谷の長源院一〇世品南伝序和尚を開山に招いて創建した。その後、無住の時期もあったようだが、明治六年に火災で全焼。翌年には再建された。本堂は山門を入って左側の建物。本尊は十一面観世音菩薩である。
ただし、天昌寺を有名にしているのは「上足洗の厄除地蔵」である。この地蔵尊は山門正面の地蔵堂に祀られており、弘法大師の作と言われている。伝承によれば、この地蔵尊はある人の夢枕に立ち、自分は今、河原に埋もれているが、丁重に供養すれば福寿円満を授けるだろうと語ったという。そこで、この者は駿河国の中を捜し回ったが、地蔵尊は見つからない。あきらめて河原にたたずんでいると、突然足元に瑞雲がたなびき、石の中から地蔵尊が現れたという。天昌寺ではこれを応仁二年(一四六八)のことであり、地蔵尊を見つけたのは連歌師の宗長だと伝えている。
<半左衛門と平見堂>
その後、この地蔵尊は足洗村の平見堂(ひらみどう)に祀られた。寺伝によれば、この平見堂は平見山称名寺ともいい、伝馬町の新光明寺の末寺だったという。だが、『駿河志料』には上足洗村の天昌寺の項目に「平見堂地蔵」の記載があり、称名寺は下足洗村の独立の寺とされているため、詳しいことはわからない。
ちなみに、かつて平見堂は、土地の有力者だった酒屋半左衛門の屋敷の跡にあったと言われている。半左衛門は、慶安四年(一六五一)に由井正雪の乱に加担した罪で処刑された人物で、その後、彼の屋敷も廃墟になったという。この屋敷にもともと地蔵尊を祀る持仏堂があったのか、それとも、半平衛門の冥福を祈る人々が、屋敷の跡地に地蔵尊を祀るお堂を建てたのかもしれない。
さらに別の記録によれば、元禄(一六八八―一七〇四)の頃、称名寺で十夜念仏が行われ、それ以後、同寺は新光明寺の末寺になったと言われている。その一方で、称名寺は正徳元年(一七一一)に、上足洗村の宇佐見氏が母の菩提を弔うため、新光明寺の勧蓮社急誉一至諦応上人を招いて開かれたとも伝えられている。
ともあれ、平見堂は明治二六年に取り壊されて、地蔵尊は長源院に遷された。しかし、長年この地蔵尊を尊崇してきた上足洗の人々の要望で、大正五年、地蔵尊は改めて天昌寺に遷座された。
なお、この厄除地蔵尊は見られることが嫌いだとの理由で、秘仏とされている。これは、あらゆる人を区別せずに救うという、地蔵の慈悲の表れである。そのため、地蔵尊はさらしに幾重にも巻かれ、幅一三〇センチ、高さ一四〇センチ程の厨子の中に安置されている。地蔵尊を天昌寺へ運んだ時、尊像を背負った人もその姿を見ることはできなかったという。現在、厨子の周りには、かつて称名寺に祀られていたと思われる別の地蔵尊と阿弥陀如来、それに、半左衛門や平見堂にゆかりの人々の位牌が並んでいる。
地蔵尊の縁日は毎月二四日。縁日には境内で「手作り市」が開かれるほか、二月の節分には豆まきが行われ、大勢の参詣者で賑わっている。また、天昌寺では随時、厄除祈祷を受け付けている。
ご詠歌 ありかたやかけてやすさの瑞光山