第四八番 大森山長源院(曹洞宗) 厄難除地蔵尊   

静岡市葵区沓谷一丁目二四―一

<長源院の草創伝説>

 大森山長源院は、銭座町付近で北街道を南に曲がり、四〇〇メートル程進んだところ、東中学校の裏側の、谷津山の麓にある。

 同寺は長享二年(一四八八)、覚山見知和尚によって開かれた。同和尚は若い頃、現在、駿河区手越の泉秀寺がある場所に滞在して説法を行ったという。ある年の夏、当目(焼津市浜当目)の虚空像菩薩のもとで百日間参籠した後、錫杖が倒れた方向に進んで相模国(神奈川県)で修行を積み、常陸国で一寺を再興した。

 約十年後、覚山和尚が夜、坐禅をしていると、白髪の子の聖の神(ねのひじりのかみ)が白龍に乗って現れ、同和尚に西へ行くことを勧めた。そこで、和尚は再び駿河国に赴き、白龍の導きに従って沓谷の善長院(大正時代に廃寺となる)にやって来た。やがて、今川家の重臣の朝比奈氏が覚山和尚に帰依し、寺院を建立するため、自らの屋敷の近くの沼地を寄進した。その沼地に同和尚が楞厳経を書写して投げ込むと、水は一夜で干上がった。ところが、一カ所だけ水がなくならない。村人達が困っていると、黒衣を着た子の聖の神が現れて、柄杓をもって「万福万福」と唱えて舞い踊った。すると、たちまち水が乾いたという。以来、子の神万福老人は長源院の守護神となり、今も本堂の前庭に祀られている。同寺の開基は、寺号の由来となった長源院殿儀天宗威大居士(一五一八没)。朝比奈泰以と推定されているが定かでない。本尊は聖観音菩薩である。

<江戸時代以降の長源院と地蔵尊>

永禄一一年(一五六八)、今川氏真が駿府から敗走し、朝比奈氏も没落すると長源院は庇護者を失った。だが、同寺の代々の住職はその後も駿府近郊に末寺を開創した。また、七世勅特賜朗月清光禅師在川謙昨和尚(〇〇〇〇没)は初代土佐藩主の山内一豊の伯父である。その頃、鷹狩の途中でしばしば長源院に立ち寄った徳川家康は、山の麓にある同寺をさして「山脇へ行け」と言ったという。それ以来、この周辺は「山脇」と呼ばれるようになった。

さらに、八世泰岳是安和尚は家康の参禅の師となり、たびたび駿府城に招かれて法話を行った。家康は長源院に広大な寺領を寄進しようとしたが、同和尚がそれを固辞したため、家康の信任はさらに強まり、同寺を駿河国第一の祈願所にしたという。山門前には、家康直筆の「大森山脇」「長源禅院」の石碑が残されている。

なお、長源院には駿府城留守居役の松平康次(一六一五没)や駿府城代の菅沼定用(一七六八没)、駿府町奉行の貴志忠義(一八五七没)等の墓がある。その他、北海道大学寮歌を作詞した横山芳介も葬られており、本堂の前に「北大寮歌の碑」が立っている。

 厄難除地蔵尊は、本堂の左側の地蔵堂に、十一面観音と弘法大師とともに祀られている。左手に錫杖、右手に宝珠を持つ木製彩色の立像で、高さ約五〇センチ。由来などは不明だが、大正五年に奉納された額に、地蔵尊の三番までの御詠歌が刻まれている。

一、ありがたや厄難除けの地蔵尊救い給へる慈悲のみこころ

二、厄難を除き給へるみほとけの深き誓ひを結ぶうれしき

三、はるばると誓いをかけし厄難を除き給へる山脇の寺

 百地蔵札所の御詠歌には、この中の一番が採用された。

ご詠歌  ありがたや厄難除けの地蔵尊  救い給へる慈悲のみこころ