第三九番 横田地蔵堂 延命地蔵尊

静岡市横田町一二−一三

<駿府の町の東端>

 横田地蔵堂は、伝馬町通りを東に進み、国道一号線と交差する百メートル程手前の北側にあり、平成三年に建てられた横田町三区公民館の正面外壁部分に組み込まれている。
 この「横田」という地名は、既に平安時代には存在した。一〇世紀に編纂された『延喜式』によれば、当時の東海道には西の小川駅(焼津市小川)と東の息津駅の間に横田駅が置かれており、この周辺が古くから交通の要衝だったことが窺われる。
 江戸時代になると、この地は東海道上における駿府の町の東端とされ、元禄五年(一六九二)には東見付が設置された。見付とは、町の入り口を守護する番兵が置かれた場所であり、道路の左右に石垣で升形の土手を築き、その周囲に堀がめぐらされていた。川越町に設けられた西見付は、正面に富士山の見える場所が選ばれたのに対して、横田町の東見付は、女富士とか小富士と呼ばれる藤枝の高根山が正面に見える場所に設けられたという。

〈家康の地蔵と庶民の地蔵〉

 この東見付のすぐ西側に、江戸時代には地蔵院という小さな寺があった。その由来は定かでないが、当時は華陽院が管理しており、同院の由緒書に興味深い記述が含まれている。それによれば、徳川家康が一七歳で初陣の時、華陽院に住んでいた家康の祖母、源応尼は、同院の地蔵に家康の無事を祈願した。その話を聞いた家康が地蔵の御影を所望したけれども、その御影がなかったため、源応尼は六センチ程の小さな地蔵を家康に贈った。家康はそれを常に陣中で襟元にかけており、襟掛地蔵と呼ばれるようになった。後に、その地蔵を祀るため、地蔵院が創建されたというのである。
 ところが、後にこの地蔵院は零落して無住となったため、襟掛地蔵は華陽院に移されたという。そこで、地元の人々は、本尊のいなくなった地蔵院に新たな地蔵を安置したのであろう。やがて、この地蔵は町の境界を守る存在として、人々の信仰を集めることになった。戦前には、現在、静鉄電車が走っているあたりに地蔵堂があったというが、そのお堂と尊像は戦災で焼失した。
 現在の尊像は高さ七七センチ。右手に宝珠、左手に錫杖をもつ石造の座像である。台座の裏側には、昭和二五年正月一六日に、地元の石部市蔵氏がこの尊像を建立したことが記されている。ただし、台座の正面部分に「駿河一国第二十二番」と刻まれているのは「三十九番」の誤りである。地蔵堂の中にはこの延命地蔵を中心に、向かって右側には子どもを抱いた木製の地蔵立像、左側には護国英霊碑と、小さな自然石の庚申塚が祀られている。
 以前は地蔵講があり、毎月二三日にはご詠歌を奉納し、団子を配っていたというが、現在は行われていない。縁日の七月二三日には、伝馬町の新光明寺の住職によって念仏が行われている。
 なお、この地蔵尊には三番からなるご詠歌がある。

一、横縦の糸を揃えて袈裟衣 着てはひとえにたのむおいづる
二、ながらへとたのむ命を朝夕に 守りたまへや慈悲のみ光
三、ありがたや故郷かへる地蔵尊 心も晴れてすむぞうれしや

 百地蔵札所のご詠歌には、この中の一番が採用された。

  ご詠歌  横縦の糸を揃えて袈裟衣 着てはひとえにたのむおいづる