第三七番 音羽山清水寺(真言宗)石地蔵尊
静岡市音羽町二七−九
<清水寺の盛衰>
音羽山清水寺は、谷津山の西麓、清水山公園の南隣にあり、一般に「きよみずさん」と親しまれている。
この地は、永正年間(一五〇四−一五二一)に印融法印が真言宗の檀林(学問所)を開設した場所である。永禄二年(一五五九)、二三年前に亡くなった今川氏輝の遺命により、弟の義元が領主の時代に、家臣の朝比奈元長が清水寺を創建したという。ただし寺伝では、京都の公家の出身である氏輝と義元の母、寿桂尼の発願によるとも言われている。開山は、京都の仁和寺から招かれた尊寿院道因大僧正。山号と寺号は、この寺の風景が京都の清水寺に似ていたことから、同寺のそれにならって名付けられた。
ところが、永禄三年(一五六〇)、清水寺の創建のわずか一年後に今川義元が敗死。永禄一〇年(一五六七)には武田信玄の軍勢が駿府に侵攻し、清水寺も全山を焼き払われた。
同寺の復興は、慶長七年(一六〇二)、徳川家康によって始められた。そして、元和二年(一六一六)には本堂が再建され、家康の念持仏で恵信僧都の作という千手観音像が寄進された。ちなみに、当時の住職の秀尊は家康と親しく、戦陣に従って戦勝祈願を行ったという。その後も、同寺は幕府の援助を得て伽藍の整備が進められたが、安政の大地震(一八五四)で観音堂を除いて全山が壊滅すると、しばらくの間、本格的な復興はなされなかった。
<境内の諸堂と仏たち>
清水寺の現在の本堂は、昭和六年に建立された鉄筋コンクリート製。外観は中国風、内部は日本風で、別名を日華親善殿という。本尊には、かつて駿河国分寺に安置されていたという丈六の鉄製釈迦像の頭部が祀られている。これは、武田軍が駿府に乱入した際に、胴体部分を鉄砲の弾丸にするために鋳潰し、頭部だけを池に投げ捨ててあったものを、同寺に祀ったものである。
本堂の西隣の薬師堂(護摩堂)は、明治初年の神仏分離の際に浅間神社から移築されたもの。これは、江戸時代まで同寺が浅間神社の別当職を勤めていたことに由来する。堂内には行基作という本尊の薬師如来座像とともに、安政の大地震まで境内の諸堂に祀られていた様々な尊像が合祀されている。
境内の一番奥の観音堂は、慶長七年に建立された現存唯一の建物である。内部には、家康から拝領した観音像が同寺全山の本尊として祀られている。例大祭は毎年七月九日に行われるが、本尊は三三年毎に開帳の秘仏であり、次回は二〇二〇年の予定である。
この他、境内には古い石仏や様々な句碑、記念碑などが残されており、薬師堂の西隣の聖天堂には歓喜天が祀られている。
通称「石地蔵」は、山門から薬師堂に向かう石段の途中、右側に鎮座している。台座の刻字によれば、この地蔵は正徳三年(一七一三)六月、中之店が施主となって建立された。また、尊像の背後の石柱には「有無縁為菩提 駿横内町 行者中村育山」と記されており、同地蔵の造立は、修験道の一行者の発願によることが窺われる。高さ約一六〇センチ。左手に宝珠をもち、右手にはかつて錫杖をもっていた跡が残る、堂々とした石造の座像である。