第三五番 仏国山法蔵寺(曹洞宗) 延命地蔵尊

静岡市曲金二丁目七番三三号

<狐ケ先古戦場と法蔵寺>

 仏国山法蔵寺は、県道二五四号線(南幹線)の曲金交差点から西へ二百メートル、西豊田小学校と軍神社の南側に隣接している。
 同寺の北西には、かつて谷津山の尾崎が狐の鼻のように突き出していた。そのため、この周辺は古くは「狐ケ崎」と呼ばれており、一説には正治二年(一二〇〇)、鎌倉幕府を追われた有力御家人の梶原景時が追っ手と合戦に及んだ場所とも言われている。法蔵寺の山門から三〇メートル東にある「願かけ馬頭観音堂」は、その時に犠牲になった梶原主従の愛馬を供養したものだという。
 法蔵寺は永享三年(一四三一)、快翁俊良阿闍梨によって真言宗の寺として開かれた。もとは「狐先山普蔵院」といい、有度山麓教院一三ケ寺の一つとして、今川氏の祈願所だったという。
 その後、今川氏の没落とともに普蔵院も衰退した。だが、文禄元年(一五九二)、清水梅ケ谷の真珠院一〇世観州泰察和尚が普蔵院の宗旨を曹洞宗に改め、山号と寺号を現在のものに改めて復興した。当初、寺域は南向きに広がっていたが、天和二年(一六六二)以来、江戸幕府の方針にしたがって、東海道に面するように北向きに建て替えられた。享保一六年(一七三一)には府中伝馬町の大火の飛び火によって全山を焼失。同二〇年(一七三五)に復興して現在に至っている。
 本尊は聖観音菩薩。脇侍として文殊菩薩と普賢菩薩が安置されており、本堂内陣の左右上方には、寛政八年(一七九六)に奉納された一六羅漢も祀られている。墓地の一角には、「背くらべ」などの童謡の作詞者である海野厚(本名、厚一)とその一族の墓や、江戸城大奥で幕末に活躍した御中ろう「浜田」の墓がある。

<境内の地蔵たち>

 山門を入ると右側に六地蔵が並んでおり、その隣に、順に千日地蔵と狐ケ先地蔵という二体の石地蔵が立っている。
 千日地蔵は高さ一一五センチ。伝承によれば、延宝四年(一六七六)、この地方に悪病が蔓延した際に、当時六一歳の傅底浄正信士が現在の済生会病院の場所に穴を掘り、中にこもって読経祈願を繰り返した。そして同年二月一五日の正午、その穴の中で入定した。この功徳によって悪病が収まったため、村人は同人を弔うために入定の地に地蔵を祀り、千日参詣の願かけを行ったという。この地蔵が、昭和一五年頃に法蔵寺の境内にうつされた。
 一方、狐ケ先地蔵は高さ一一〇センチの光背をもつ。もとは法蔵寺の西方約二百メートルのところ、街道北側に突き出た山麓に、京都の永観堂禅林寺になぞらえた永観堂というお堂があり、そこに祀られていた。江戸時代には、東海道を旅する人々がこの永観堂に立ち寄って身支度を整え、狐ケ先地蔵に道中の無事を祈願したという。この地蔵も、昭和の初め頃に法蔵寺にうつされた。
 延命地蔵は、本堂の左側にある観音堂に、二体の如意輪観音とともに祀られている。由来などは伝えられていない。高さ約四五センチ。左手に宝珠、右手に錫杖をもつ木製立像である。古い尊像だが、昭和五七年に修復されたため、彩色も鮮やかである。

  ご詠歌 愚痴無知の衆生を救う願なれば 未来は同じ成仏の縁