第三三番 栽松山神竜院(臨済宗妙心寺派)子安地蔵尊
静岡市八幡五丁目三一番地一五
<今川了俊と神竜院梵舜>
栽松山神竜院は、八幡山の南麓にある八幡神社の東隣、県道三八四号(久能街道)から少し奥まった所に位置する。
同寺の開基は今川了俊(貞世)と伝えられており、応永年間(一三九四−一四二八)の草創と言われている。今川了俊は、駿河今川家初代範国の次男。応安四年(一三七一)から二五年間、九州探題として同地方の行政と外交交渉に従事したが、罷免された後は遠江に隠棲した。了俊は当時一流の文化人であり、『難太平記』や『今川大双紙』など多数の著作を残す一方で、後に徳川・武田両軍の激戦の地となる小笠郡の高天神城を築城した。応永二七年(一四二〇)に九六歳で没し、袋井市の海蔵寺に葬られたというが、神竜院にも了俊の墓という五輪塔が残されている。
了俊がなぜ神竜院の開基にされたのかは定かでない。同寺の口伝によれば、了俊は久能に書庫を作ったと言われており、その際に滞在したのがこの地だったとも考えられている。
天文一八年(一五四九)、同寺は臨済寺二世太原崇原和尚(雪齋長老)によって臨済宗寺院として開かれた。当時は「栽松寺」と呼ばれており、八幡神社の神官の菩提寺だったことが、今川家関連の古文書からうかがわれる。
伝承によれば、同寺が「神竜院」という現在の寺名に改めたのは、元和二年(一六一六)に徳川家康が亡くなり、その遺言によって久能山における葬儀一切を取り仕切った神竜院梵舜が、同寺に滞在したことによる。また、梵舜は同寺に二五石の寺領を寄付したとも言われている。これらの出来事は、あるいは同寺で中興開山と仰がれている五世雲庵沢公和尚(一六四四年没)の代のことかもしれない。ちなみに、梵舜は神道の一派である吉田神道の継承者であると同時に、臨済宗の僧侶であり、京都吉田山の麓にある神竜院の住職でもあった。彼は豊臣秀吉を祀った豊国社の創建、運営に関わる一方で、晩年の家康に招かれて、天海僧正や金地院崇伝とともに、その宗教政策に深く関与した人物である。
<八幡神社と地蔵尊>
江戸時代、神竜院は八幡神社の神官をつとめた八幡氏の私寺だったとも言われており、同氏の墓塔と伝えられるものが、同寺の裏山の斜面に十数基残っている。また、戦前には同寺の本堂に、本尊の聖観音菩薩とともに、八幡神社の祭神の本地仏(神の本当の姿)である阿弥陀如来が祀られていたという。けれども、この仏像は昭和二〇年の戦災で諸堂宇とともに焼失した。
子安地蔵尊も、もとは八幡神社の門前にあり、同神社の別当寺院の西光寺の所有だったという。だが、西光寺は明治時代に廃寺になり、地蔵は神竜院に移された。この地蔵は石造りの尊像で、古くから地元の人々の信仰を集めていたという。しかし、首が取れるなどして大きく破損したため、昭和三三年に新たに木製の立像が造られ、あわせて境内の西側に地蔵堂が新築された。その際に、古い尊像は地蔵堂の下に埋められた。堂内には、左手で子供を抱き、右手で錫杖をもつ高さ五五センチの新しい尊像が、かつて八幡神社の門前に並んでいた六地蔵とともに祀られている。
ご詠歌 しずの女やはた織る糸の数々に 仏のみ名を絶えず唱えよ