第三〇番 下小田地蔵堂 子育地蔵尊
焼津市下小田
<矢田地蔵のご分身>
下小田地蔵堂は、県道三一号線に面した栄田神社の北側の道を、海岸の方に向かって約四百メートル東進したところにある。
ここの地蔵は、大和国(奈良県)矢田村の金剛山寺、通称「矢田寺」の本尊、「矢田地蔵」の分身である。伝承によれば、南北朝の動乱(一四世紀)で滅亡した楠氏の末裔が、一六世紀頃に下小田の地に住みついた。ある時、その家の子供が病気になったり、大波にさらわれて溺死したりという不幸が続いたため、一族の者が矢田地蔵の分身を譲り受け、同地まで背負ってきたという。
また、別の言い伝えによれば、天正年間(一五七三−一五九二)に下小田に住みついた桜井次郎延英が、先祖代々信仰している矢田地蔵の分身をもたらしたとも言われている。あるいは、この桜井氏が、楠氏にゆかりの一族だったのかもしれない。
矢田地蔵の由来は、鎌倉時代以降に作られた数々の縁起絵巻などに詳しい。それによれば、平安時代の初め頃、満米上人が閻魔大王に菩薩戒を授けると、閻魔大王はそのお礼として、上人を地獄巡りに案内した。その時に、上人は地獄で罪人を救う地蔵に出会い、地蔵を信仰する者は、たとえ地獄に堕ちても救われることを教えられた。そこで、人間界に戻った上人は、地獄で出会った地蔵にそっくりの尊像を造らせ、矢田寺に安置したという。
その後、大和国桜井郷に住む武者所康成が、天慶五年(九四二)に誤って母を殺してしまった。康成はその菩提を弔うため、毎月矢田地蔵に参詣していたが、天暦年間(九四七−九五七)に亡くなった。彼は地獄に堕ちたけれども、地蔵に救われて人間界に蘇ったという。この康成こそが、桜井氏の祖先である。
<花火の好きな子育地蔵>
下小田の地蔵は、この地の四ツ辻に祀られたため、辻地蔵と名付けられた。また、富士見地蔵とも呼ばれたようである。高さ約六〇センチの石造りの立像で、両手で宝珠を捧げもっている。
この地蔵は特に子供の夜泣きや疳の虫封じ、生児安泰などにご利益があると言われ、一般には子育地蔵として親しまれている。地蔵堂の中には平らな丸石が多く置かれており、中には名前や願い事を書いたものもある。この石を一つ持ち帰り、夜泣きをする子供の枕元や枕の下に置くと、夜泣きが治ると信じられている。そして、願いがかなった後には、借りてきた石と同じ大きさの石を浜で拾い、元の石と一緒に返すことになっている。
また、この地蔵の供養を怠ったり、地蔵にいたずらをすると、その年は農作物が不作になったり、病人や死者が多く出ると言われている。そこで、縁日には昔から花火を上げて供養を行ったため、この地蔵は花火地蔵とも呼ばれている。伝承では、この花火もかつては楠氏伝来の火薬製造法によって造られたという。しかし、最近では宅地化の影響で、花火の打ち上げは中止されている。
とは言え、今も縁日の八月二四日には夜店が並び、多くの人が参詣に訪れる。また、この日には町内の光西寺の住職による読経供養が行われ、ご朱印札が配られる。なお、地蔵堂は平成一五年に、道路の改良事業のために道路の北側から南側に移された。
ご詠歌 幼子をいと健やかに育てゆく 慈悲の心の願いとぞ聞く