第二番 宝池山長善寺(時宗) 子育(厄除)地蔵尊
静岡市本通六丁目五七番地
<「一華堂」長善寺>
宝池山長善寺は、正しくは宝池山蓮華院一華堂長善寺といい、本通と平成通りの交差点の北側にある。
同寺は正和二年(一三一三)、時宗の開祖である一遍上人の跡をついだ遊行二祖、陀阿真教上人によって開かれた。古くから、駿河国の時宗僧侶に命令を下す触頭であったという。山号、院号、寺号などの由来は定かでないが、かつて同寺の北東に蓮池があり、その蓮の実を用いて施餓鬼会を行ったという伝承もあり、それとの関係があるのかもしれない。本尊は阿弥陀如来。
永正一〇年(一五一二)、相模国(神奈川県)藤沢にある本山の清浄光寺(遊行寺)が兵火によって全焼した際には、破損した本尊の阿弥陀三尊像を長善寺にうつし、数年間安置した。また同じ年、当時の遊行二一世知蓮上人は長善寺で遷化し、その跡をついだ意楽上人は同寺で遊行二二世となっている。これにより、長善寺はしばらくの間、本山に準じる地位を与えられた。
ところで、長善寺一二世乗阿上人は歌道にすぐれ、慶長一〇年(一六〇五)には後陽成天皇の連歌の会に出席した。その時に詠んだ歌、「いつはあれど色なきものの身にしむはあやしき秋のゆうべなりけり」が天皇から「比類なし」と称えられ、歌学についての勅問を受けるとともに、「一華堂」の号を賜わったという。また、同上人は徳川家康の帰依も受け、家康から御朱印三〇石とともに、聖観音菩薩像と、播磨国高砂尾上の鐘をかたどった茶釜を拝領した。この茶釜は現在も同寺に所蔵されている。
墓地の一角には、江戸時代の初期に長善寺の復興に尽力した駿府の豪商、梅屋勘兵衛の墓がある。彼は、現在の梅屋町で本陣を経営するとともに、オランダとの貿易で財をなしたが、慶安四年(一六五一)、由井正雪の乱に巻き込まれて江尻へ追放された。墓塔は彼の子孫が後に建立したものである。
<子育地蔵とチャンチャカドコドン>
子育地蔵は境内北隅の地蔵堂に安置されている。この地蔵の由来は不明である。また、百地蔵尊が制定された際、同寺の地蔵は厄除地蔵と紹介されたが、現在では子育地蔵として祀られている。
その理由もわからないが、同寺に江戸時代の初めから伝わっていた子供の祭、「チャンチャカドコドン」と関係があるのかもしれない。これは毎年二月の初午の日に行われたもので、もとは時宗の信者たちの盆踊りや虫送り踊りが、子供の念仏踊りとして伝えられたものである。朝早くから太鼓を打ち鳴らし、境内での芝居見物などもまじえたこの祭は、かつては駿府でも一、二を争うほど有名だったが、戦後は途絶えてしまった。このような祭を行っていた長善寺であったから、はやり病で子供が次々と命を落とした時に、人々は同寺の地蔵に病気平癒を祈ったのかもしれない。
戦前の地蔵は石造りであったが、空襲によって粉々に砕けてしまった。現在の尊像は漆喰造りで高さ約一、五メートル。左足をたらして坐し、左手に子供を抱え、右手に錫杖をもつ。伊豆長八の弟子の作で、体内に以前の尊像の破片が納められている。同寺では、毎月二四日に子育地蔵祭を行っている。
ご詠歌 いにしえも今もみのりの絶え間なく 六趣に声を聞くぞうれしき
長善寺本堂 子育地蔵尊