第二八番 延命山関川庵(曹洞宗)吉三(きちざ)地蔵

島田市河原二丁目一一番地二〇

<関所川の地蔵堂>

 延命山関川庵は、島田市博物館から川越街道(旧東海道)を約二百メートル東へ進み、川会所跡と二番宿の間の小路を二百メートル北上したところにある。百地蔵尊の中で最も西の札所である。
 同庵は正徳年間(一七一一−一七一六)頃の創建という。しかし、江戸時代後期の諸記録には「地蔵堂」と記されているだけで、「関川庵」の名前は見られない。おそらく、もとは村の地蔵堂にすぎず、寺院として整備されていなかったのだろう。
 当時、村はずれのこの場所は、当初から村人の墓所だった。また、ここには大井川の川越えを前に亡くなった旅人も葬られた。そこで、いつ頃からか僧侶が住み着き、関川庵と呼ばれるようになったと思われる。ちなみに、この名前は大井川の別名、「関所川」に由来するという。同庵は島田宿の法幢寺に属していたが、一時は同宿の普門院の管理下にあったらしい。

 昭和四七年、関川庵は法幢寺四世曹岳楳堂和尚を中興開山として正式な寺院に昇格した。本尊は以前から同庵に祀られていた延命地蔵。高さは約九〇センチ、石造りの立像である。

<八百屋お七と吉三郎>

 天和元年(一六八一)二月、江戸の本郷で大火が起きた。この時、焼け出されて駒込の吉祥寺に避難した人々の中に、八百屋の娘、お七がいた。お七は寺の小姓、小野川吉三郎と恋仲になったが、彼女の家が再建されると、二人は別れなければならなくなった。そこで、お七は再び火事になれば吉三郎に会えると思い、自宅に火をつけた。けれども、このことはすぐに露見して、お七は天和二年、市中引き回しの上、火あぶりの刑に処せられた。後に井原西鶴の『好色五人女』をはじめ、多くの文学や戯曲の題材に取り上げられた「八百屋お七」の物語である。
 関川庵の伝承によれば、その後、吉三郎はお七の菩提を弔うために、江戸から西国に向けて旅立った。しかし、吉三郎は大井川を前にして亡くなり、この地に葬られた。さらに幾年か後に、廓應という名の僧が江戸からやってきた。この僧はお七と吉三郎の息子だと言い、終生、関川庵で二人の菩提を弔ったという。
 同庵で本尊の隣に祀られている吉三地蔵は、吉三郎が江戸から背負ってきたものとも、廓應がこの地で刻んだものとも言われている。左足を下に垂らし、右足を立ち膝にした木製の坐像で、高さは約六五センチ。右手の錫杖は失われたが、左手に宝珠をもつ。全身を覆っていた金箔も、今ではほとんどはげ落ちてしまった。
 尊像の裏側には、朱字で「經蓮社願譽夢覺信士大徳、寶永七年正月十九日、妙譽貞經信女靈位、元祿五年八月十五日、願主廓應」と記されている。また、同庵には九曜星と三引の二つの家紋を刻んだ位牌も残されている。表の文字は読み取ることができないが、裏面に二人の命日と「廓應父母也」の文字が記されている。さらに、境内には吉三郎の墓と言われる苔むした石塔もある。
 しかし、位牌に記されたお七の命日は史実に合わず、お七の恋の相手も別人だったという説がある。関川庵の位牌と地蔵が「廓應」の両親のものだという以外、事の真相は定かではない。

  ご詠歌 亡き人の菩提のためにまわり来て 吉三もここに露と消えなむ


       
      吉三地蔵尊                 吉三の墓とされる石塔