第二七番 旗指地蔵堂 恐山地蔵尊

島田市中河町旗指

<古戦場にちなむ地名>

 恐山地蔵堂は、国道一号線バイパスの旗指インターの南東約三百メートル、伊太川沿いに位置する。
 この地蔵堂がある旗指地区は、永禄一一年(一五六八)から数年間にわたり、徳川家康と武田勝頼が戦闘を繰り返した場所である。当時、兵力で劣っていた家康は、河原に多くの旗を立てて将兵を多くみせかけた。それにちなんで、この一帯は後に「旗指」と呼ばれるようになったという。
 また、この戦闘の際に、家康は旗指地区にある小高い丘の森陰に本営を置いたと伝えられている。そのため、この森は江戸時代に「権現森」と呼ばれるようになった。しかし現在、その森はなくなり、恐山地蔵堂の北方を走るバイパス用地になっている。

<下北恐山の地蔵のご分身>

 明治時代の中頃、旗指地区で疫病が流行し、住民は大いに苦しんだという。この状況を見て、当時同地区の伝心寺に隠棲していた西有穆山師が、病気平癒と村内安全を祈念して、青森県下北半島の恐山から本尊の地蔵菩薩の分身を譲り受けた。堂内には、恐山を監理している青森県円通寺の住職が、明治三三年一月二八日に付与した「恐山地蔵尊分體贈與證」が掲げられている。
 ちなみに、西有師は陸奥国(青森県)の出身。明治三四年に横浜市鶴見区にある曹洞宗大本山総持寺の貫主となり、勅特賜直心浄国禅師の号を受けた。旗指の地蔵堂には、同師が総持寺貫主となった後に揮毫した「願王殿」の額がかかっている。
 また、恐山は高野山、比叡山と並ぶ日本三大霊場の一つ。貞観四年(八六二)、慈覚大師円仁によって開かれたと言われている。当初は天台宗の寺院だったが、一度廃寺となり、享禄三年(一五三〇)に曹洞宗の釜臥山菩提寺として復興した。古くから死者の魂の集まる霊場と言われており、大祭の日に、死者の言葉を伝えるイタコが集まることでも知られる。本尊は、慈覚大師自作と伝えられる地蔵菩薩。この地蔵は毎夜賽の河原を見回るため、新しい下駄を奉納しても、翌日にはその裏に小石がついているという。
 さて、この地蔵の分身を譲り受けた旗指地区の人々は、一一三〇キロ離れた恐山から、尊像を背負って帰って来た。そして、西有師が寄付した金五〇円と墨跡百枚を元手に、二、五間四方の地蔵堂が建立された。堂内に残っている棟札によれば、尊像が堂内に安置されたのは明治三三年四月のことである。
 地蔵尊像は、堂内中央に祀られており、台座を含めて高さ七五センチの木像坐像。左足を下に垂らし、左手に宝珠、右手に錫杖をもつ。全身に施された金箔は、残念ながら剥落が進んでいる。また、この尊像の左側には、高さ六五センチの石造りの地蔵立像も祀られている。この地蔵の由来は定かでないが、おそらく昔から同地区で祀られていたものだろう。
 地蔵堂は今も旗指地区で守られており、日限りの願かけに参詣する者も多い。縁日の毎月二六日には、地区の人々が大数珠を回しながら読経を行う。また、大祭の八月二六日には、同地区の静居寺住職による施食会供養とともに、盆踊りなども行われる。

  ご詠歌 心だに慈悲の御船に乗り合わせ 櫓櫂はここに旗指の里


       
         旗指地蔵堂内部                      恐山地蔵尊