第二四番 暁居山満蔵寺(曹洞宗) 延命地蔵尊
藤枝市稲川一丁目三番地一四
<満蔵寺の略縁起>
暁居山満蔵寺は、藤枝市役所の西、約四百メートルのところにある。
寺伝によれば、元弘元年(一三三一)の春、備前国の住人、児島中将範長の三男、七郎高久が駿河国にやって来て、稲川村の稲川森に住み着いた。彼は自ら剃髪して焼津市田尻の真言宗宝楽寺五世智然法師の弟子になり、名を暁居と改めた。やがて、修行に励む暁居和尚のために、村の人々が稲川森に庵を建てて、真言宗の「暁居山満蔵寺」を開創したという。
この暁居和尚について、詳しいことはわからない。ただし、彼の父の範長と兄の三郎高徳はいずれも備後守を名乗っており、南北朝時代の初めに、南朝の後醍醐天皇方の武将として活躍したことが『太平記』に記されている。
満蔵寺は、後に火災や戦乱にあって荒廃した。しかし、永禄一二年(一五六九)、藤枝市谷稲葉の心岳寺四世蒲山孝順和尚が同寺を再興し、宗旨を曹洞宗に改めた。また、明暦元年(一六五五)に洪水で諸堂を流失し、安政元年(一八五四)には大地震で堂宇が全壊したが、その度に復興を繰り返してきた。
現在の本堂は、台湾大同電力社長や日本発送電力総裁をつとめた稲川村出身の増田次郎氏(昭和二六年没)が中心となり、昭和一三年に建てたもの。本堂前には同氏の胸像が建っている。
<満蔵寺の仏たち>
本堂の西側に「三仏堂」いうお堂がある。伝承によれば、応仁年間(一四六七−一四六九)の頃、ある日の夜更けに二人の少年が満蔵寺を訪れ、背負っていた唐櫃を預けて立ち去った。この少年たちは戦乱で荒れ果てた京都から来たと言い、唐櫃には高さ一メートル程の文殊菩薩と普賢菩薩が納められていた。唐櫃は明暦元年の洪水で失われたが、その中には「河内国菊水山」の銘があったという。これらの尊像は楠木正成、正行父子が祀っていた三尊仏の中の二体と伝えられている。満蔵寺では、後にこの二体に勢至菩薩を加え、満蔵寺三尊仏として三仏堂に祀った。文殊菩薩は卯年、普賢菩薩は辰年と巳年、勢至菩薩は午年の守本尊と言われており、毎年縁日の九月二三日には大勢の参拝者でにぎわっている。
この三仏堂の前に数体の古い地蔵や石塔が並んでおり、その中には、六面に地蔵が一体ずつ彫られた六地蔵灯籠や、三面に「見ザル、聞かザル、言わザル」が彫られた元禄一二年(一六九九)建立の庚申塔がある。さらに、増田氏の胸像の隣には金毘羅大師の祠が祀られている。
延命地蔵は満蔵寺の本尊である。高さ約九〇センチの木製立像。左手に宝珠、右手に錫杖をもち、脇侍の掌善童子と掌悪童子は厨子の左右の扉に描かれている。尊像は行基の作と言われ、同寺の草創時に暁居和尚が自ら祀ったものだと伝えられている。肌の金箔は残っているが、胴体の彩色は失われ、細かい穴が多くあいている。その様子は、火災、洪水、地震などの災禍をかいくぐってきた尊像の歴史を物語るかのようである。
ご詠歌 朝露におくてもわせの稲川に 流るる水のあわれいつまで