第二三番 妙高山六角庵(曹洞宗)子育地蔵尊

藤枝市天王町二丁目七番地四一

<尼僧寺の子育地蔵>

 妙高山六角庵は、藤枝東高校の北東約二百メートルに位置する。ただし、現在では「六角堂」の額がかかる一辺一間の六角形のお堂と、かつての庫裡が残るだけで、境内の大半は空き地である。
 子育地蔵は、この六角堂の中に祀られている。寄木造りで、高さは約一八〇センチ。片足を下にたらした半跏の姿勢で岩上に坐し、左手に宝珠、右手に錫杖をもっている。雨漏りのために下半身には痛みが出ており、彩色もはげ落ちているが、上半身の肌に押された金箔や、衣紋の彩色は美しく残っている。
 「六角堂」と呼ばれるお堂は古くからこの地にあり、本尊として今の尊像が祀られていたというが、その由来はわからない。もとは葉梨村の?照寺に属していたが、後に堂宇が老朽化した時、藤枝市大手の源昌寺四世佛州玉頴和尚の弟子、智岩妙高尼が再建を志した。そこで、?照寺の許可を得て本寺を源昌寺に変更し、文政二年(一八一九)、六角堂の再建と本堂の新築にとりかかった。しかし、妙高尼が高齢だったため、弟子の慧林法春尼がその志を継ぎ、文政三年に完成した。そして、佛州和尚を開山に仰いで正式な尼僧寺になった。開基は妙高尼である。
 その後、同寺では代々尼僧が住職をつとめたが、昭和四〇年代に当時の住職が亡くなってからは無住寺院になった。そのため、昭和五三年に地元の人々が本堂などを取り壊し、六角堂の補強工事を行った。その際に、本尊の阿弥陀如来や歴代住職の位牌などは庫裡に祀られた。六角堂の裏には尼僧たちの墓地も残っている。
 現在、六角堂は地元の人々と源昌寺で守られている。縁日は八月二四日だが、大祭はその前後の土曜日に行われる。当日は子供たちの健やかな成長を願って、一人一人の名前の書かれた提灯が一五〇基程つるされる。中心にはその年に生まれた子供の提灯が掲げられ、その下で盆踊りが行われる。また、この日には源昌寺の住職による読経供養も行われ、ご朱印札と紅白団子が配られる。

<もう一つの地蔵堂>

 六角堂の百メートル程東に、「芝原地蔵堂」とか「旧市部村地蔵堂」と呼ばれるもう一つの地蔵堂があり、高さ七〇センチ前後の石造りの六地蔵が祀られている。一見すると、それぞれの頭の上にいろいろなものがくっついた奇妙な形に思えるが、それらは各地蔵の持ち物で、造像の規定に従った尊像である。しかも、それぞれの持ち物には金箔が押してあり、保存状態も良好である。
 六地蔵にはさまざまな呼び名があるが、ここの六地蔵は『十王経』という経典にもとづいている。向かって右側から、それぞれ天上、人間、阿修羅、畜生、餓鬼、地獄の世界で活躍する預天賀、放光王、金剛幡、金剛悲、金剛宝、金剛願という名の地蔵であり、順に如意珠、錫杖、金剛幡、錫杖、宝珠、閻魔幡をもっている。
 この六地蔵は、宝永五年(一七〇八)一〇月に安置された。その前年の一〇月には大地震が起こり、一一月には富士山が噴火したため、この年は農作物の凶作にみまわれた。そのため、人々は天災の終息と、安らかな生活を願って六地蔵を祀ったと言われている。こちらの大祭は、八月二四日前後の日曜日に行われている。

  ご詠歌 六のかど地蔵菩薩のご利益を 受けて喜ぶ老いも若きも


       
         六角堂(地蔵堂)                      子育地蔵尊