第二〇番 西了山慈眼寺(曹洞宗)抱(だき)地蔵
藤枝市横内一七九番地
<慈眼寺の開創と伝説>
西了山慈眼寺は、国道一号線の内谷新田の交差点から県道八一号線にはいり、百メートル程南下したところにある。
同寺のある横内村は、文禄三年(一五九四)、もと豊臣秀吉の家臣であった池田孫次郎輝利が中心になって開かれた。村ができると、村人は自分たちの寺を建てたいと願うようになった。そこで、藤枝市の常楽院六世学翁宗参和尚の弟子、龍谷秀泉和尚が、村人の協力を得て堂宇を建立した。そして、慶長四年(一五九九)、師の学翁和尚を開山に仰いで慈眼寺を開創した。開基は龍谷和尚、本尊は阿弥陀如来。山号は西方極楽浄土への往生を表し、寺号は『観音経』の一節、「慈眼視衆生」からつけられた。
伝説によれば、江戸時代のある時、一人の旅人が横内橋のたもとでキセルをふかしていると、吸い殻が何かに追われるように転がっていった。そして、風もないのに慈眼寺の境内にはいり、客殿の下にもぐりこんだ。住職が不審に思って荷物をまとめておくと、その日の夜半過ぎに客殿から火事が起こり、全山が炎に包まれたという。この火事は、後に「慈眼寺の怪火」と語り継がれた。
<宗吾霊堂と二体の地蔵>
本堂の左側に「宗吾霊堂」と書かれた建物がある。ここには、安房国(千葉県)印旛村の義民、佐倉宗吾(惣五郎)が祀られている。宗吾は承応二年(一六五三)、圧政に苦しむ村人を救うため、四代将軍徳川家綱に直訴して処刑された。後に、宗吾は農民の尊崇を集め、千葉県成田市の東勝寺「宗吾霊堂」に祀られた。明治三八年、横内村で養蚕事業が始められた時、塚本角蔵が農民の守り神として宗吾の分霊を同村にもたらし、それを明治四一年に慈眼寺にうつした。今も農業の神として崇められている。
また、境内の山門脇には台座を含めて高さ一七五センチ程の地蔵と数基の墓石が並んでいる。横内村は享保二〇年(一七三五)以降、美濃国(岐阜県)岩村藩の飛領地となり、代官陣屋が置かれた。そのため、当地で亡くなった岩村藩士やその家族は慈眼寺に葬られたのである。その中に、宝暦一一年(一七六一)に亡くなった三代目代官、田中清太夫首上がいる。天明七年(一七八七)、彼の嫡子が父の供養のために同寺に土地を寄進し、身の丈と同じ高さの地蔵を墓地に祀った。清太夫は村人に慕われていたため、この地蔵も代官地蔵とか「お代官さま」と呼ばれて親しまれた。今も八月二三日には供養祭が営まれ、盆踊りが行われている。
抱地蔵は、本堂内の左隅の厨子に祀られている。両手で宝珠をもつ姿で、ふかふかした座布団に坐り、幾重にも前掛けをかけられた二〇センチ程のかわいらしい石像である。この地蔵は、抱き上げた時に軽く感じられれば願い事がかない、重く感じられれば願い事がかなわないと言われている。このように、持ち上げた時の重さで物事の吉凶を占う信仰は、静岡県ではあまり知られていないが、山梨県や愛知県などで盛んである。慈眼寺の抱地蔵は同寺九世哲英雄伝和尚が、愛知県半田市の東光寺に祀られている「重軽地蔵尊」の分身として、大正一一年に安置した。縁日は毎月二三日。この日には、多くの人々が抱地蔵の供養に訪れる。
ご詠歌 ありがたや心を込めて唱えなば 利益はここに抱地蔵尊