第一番 医王山顕光院(曹洞宗) 開運延命地蔵尊   

静岡市研屋町四五番地

<顕光院の略縁起>

医王山顕光院は、中町の交差点から約五百メートル、本通の北側の土手通院りから、少し奥まったところに位置している。
 同寺はもと「安西山大仏寺」といい、天文元年(一五三二)に真言宗の寺院として開かれた。開基は道翁学公和尚。「顕光院」の名前は、同寺の鎮守である住吉大明神の威光が顕らかなことによるという。本尊は一一面観世音菩薩である。
 天正一〇年(一五八二)、織田信長と徳川家康が甲斐の武田氏を攻めるために軍勢を東に進めていた。その際に、顕光院の長老は、家康のたのみを受けて長坂血槍九郎とともに江尻城におもむき、城主である武田方の穴山梅雪に降伏をすすめた。梅雪はその説得に応じて城を明け渡し、織田、徳川の連合軍は梅雪の案内によって甲斐国に攻め入った。そして、同年三月に武田家は滅亡する。
 この功績により、顕光院は中田荘(静岡市中田)の医王寺屋敷を与えられ、同地に祀られていた薬師如来像を顕光院に遷すとともに、山号を「医王山」に改めた。また同じ頃に、遠江国一宮の高雲寺二世揚室印播和尚によって、宗旨も曹洞宗に改められた。
 記録によれば、顕光院は駿府加番在職中に亡くなった信濃国長沼藩主、佐久間勝之(一六三四没)の墓所とされている。墓地の一角には、江戸時代後期に『東海道中膝栗毛』を著した十返舎一九の実家の重田家の墓所がある。また、山門を入った左脇には、太平洋戦争終結後にシベリアに抑留されて亡くなった人々の菩提を弔う平和観音が祀られている。

<関の地蔵のご分身>

 開運延命地蔵は、本堂前の庭に鎮座している。台座を含めて高さ約二・五メートル。花崗岩造りで、左手に宝珠、右手に錫杖をもっている。この地蔵は、伊勢国関宿(三重県関町)の地蔵院の本尊で、わが国最古の地蔵と言われる「関の地蔵」の分身である。
 天平一三年(七四一)、僧行基が東大寺建立についての神意をうかがうために伊勢神宮をおとずれた。そのおりに、行基は当時流行していた天然痘から人々を守るために、関宿で地蔵の像を自ら刻み、同地に祀った。これが関の地蔵の始まりと伝えられている。
 その後、享徳元年(一四五二)に地蔵堂の修理が行われた際には、たまたま通りかかった一休禅師によって、改めて地蔵の開眼供養が営まれた。禅師は自ら身につけていた衣襟を地蔵の首に巻いて供養した。そのことが、後に一休の風狂な人柄と重なって、「一休は、ふんどしを地蔵の首にかけて供養した」と伝えられた。
 また、江戸時代に関宿が東海道の宿場になると、関の地蔵には多くの参詣者が集まった。五代将軍徳川綱吉の生母、桂昌院はこの地蔵を信仰し、そのおかげで綱吉が生まれたとも言われている。
 文化元年(一八〇四)、当時の顕光院の住職が伊勢参りに出かけ、関の地蔵に参詣した。そして、この地蔵の霊験あらたかなことに感銘した和尚は、その分身を勧請し、自ら背負って駿府に戻った。これが、同寺の開運延命地蔵である。だが、その尊像は明治一七年に隣家の火事で類焼し、代わりの像も昭和二〇年に戦災で焼失した。現在の尊像は昭和五九年に開眼された三代目のものである。

ご詠歌  延命をたのむとともに福運の いたるをねがう地蔵尊王