第一番 笹川地蔵堂 十四地蔵尊

岡部町新船笹川

<水玉神社と十四地蔵尊>

 十四地蔵尊は、県道二一〇号線上の「道の駅玉露の里」から北に五百メートル進んだところを西に曲がり、さらに朝比奈川の支流の笹川に沿って、約一、四キロ登ったところにある。地元では「笹川の地蔵」とも呼ばれており、地蔵堂の手前はビク石山頂へ続く笹川八十八石ハイキングコースの登り口になっている。 
 伝承によれば、文治元年(一一八五)に平家が滅亡した後か、あるいは一四世紀の南北朝の動乱の時代に、この地に逃れてきた落ち武者がビク石のすぐ下の落人段に住み着いた。やがて時を経て、その子孫が現在の笹川の地に生活の場所を移した。そして、彼らは部落の安泰を祈り、清水の湧き出る「堀の沢」に氏神様を祀った。ご神体は十五個の水玉だったという。
 ところが、ある時大きな山崩れが起こり、氏神様が土砂に埋まってしまった。人々は何日もかけて土砂を掘り起こしたが、ご神体を見つけられなかった。そんな時、ホウエンサン(法印さん、修験者)の堀田三十郎がこの村に現れた。彼が呪文を唱えると、土砂の一角が輝き始めた。その場所を掘ると、中から薄茶色をしたご神体の水玉が一つ現れたという。そこで、堀の沢の前の小高い丘の上に社を建てて「水玉神社」と名付け、見つかった水玉を祀ることにした。この社から見つかった古文書には、「大永元年(一五二一)建立」と記されていたという。
 ところが、その後しばらくして、村の中では夕方になると水玉がフワフワと浮かんでいるのが目撃されたり、水玉に行く手をさえぎられたりすることが続くようになった。しかも、水玉は一つの時もあれば、一四個の時もある。「これは土砂に埋まった一四個の水玉の魂が、安らかに眠る場所を探しているにちがいない」と考えた村人たちは、一四体の地蔵を作り、水玉神社の向かいの岩の上に祀った。以後、水玉の姿は見られなくなったという。
 ちなみに、水玉神社のご神体の丸石を手でこすったら、水がにじみ出たという言い伝えがある。しかし、十四地蔵の厨子を開けると山が荒れると言われており、村人も地蔵を見ることはできない。縁日は七月一五日。この日には榊と月見餅を供える習慣になっており、かつては地蔵堂の前で舞の奉納も行われたという。

<勝覚法師地蔵尊と勝覚踊り>

 十四地蔵尊のお堂の脇に、高さ一メートル程の石造の地蔵がある。これは、明治四二年に八〇歳で亡くなった勝覚法師の徳をたたえて、明治四四年に祀られたものである。
 勝覚法師は笹川地区の出身で、本名を伝左衛門といった。幼い頃から欲がなく、神仏との語らいを唯一の楽しみとしていた。藤枝の安楽寺で修行し、二五歳で村に戻ってからは、十四地蔵尊の隣のお籠もり堂で、人々の求めに応じて占いやご祈祷などを行って暮らしていた。生前から「活き地蔵」と呼ばれ、県内各地に多くの信者がいたという。
 この勝覚法師に奉納するための勝覚踊りが、昭和四七年に創作された。落人伝説の残る笹川の地に、先祖伝来の十四地蔵尊の信仰とならんで、勝覚法師をしのぶ新しい伝統が生まれたのである。

  ご詠歌 笹川のささの清水で身を浄め 参る人には利益あるべし


       
      笹川地蔵堂                  水玉神社