第一六番 坂下地蔵堂 延命地蔵尊
岡部町坂下
<聖徳太子手刻みの地蔵>
坂下地蔵堂は、国道一号線の新宇津ノ谷トンネル岡部口の真下に位置し、蔦の細道と旧東海道が合流する場所の手前にある。
この延命地蔵がいつから祀られていたのかはわからないが、境内には寛文一一年(一六七一)に寄進された灯籠が残っている。また、元禄一五年(一七〇二)に新鋳された梵鐘の銘文には「聖徳太子手刻之地蔵菩薩霊像」と記されており、その前年に尊像を修理して、地蔵堂を再建したことが記録されている。
地蔵堂の周囲には、古い石地蔵や五輪塔が並ぶ賽の河原や、通称「白観音」を安置する観音堂がある。また、蔦の細道を顕彰して文政一三年(一八三〇)に建てられた蘿径記も残されている。
一方、堂内には台座に半跏で坐る高さ約一六〇センチの地蔵が祀られている。しかし、このすすけた「黒地蔵」は本尊ではない。
延命地蔵は二〇年毎に開帳される秘仏で、前回は平成一五年だった。尊像の高さは台座を含めて約一三〇センチ。木製の立像で、左手に宝珠、右手に錫杖をもっている。昭和三八年のご開帳の際に修理されており、肌の白色と、金蘭の袈裟の彩色が鮮やかである。厨子の前には脇侍の掌善童子と掌悪童子も祀られている。
現在、地蔵堂は坂下の町内会と岡部町の永源院が管理している。縁日は八月二三日と二四日。この日には、串刺しにした十団子が供えられ、初盆供養のために遠近から多くの人々が訪れている。
<鼻取地蔵と稲刈地蔵>
延命地蔵は、古くから「鼻取地蔵」として親しまれてきた。伝承によれば、一日の農作業を終えたお百姓が家に帰る途中で、連れていた牛が急に動かなくなってしまった。お百姓が困っていると、一人の子供が現れて牛の鼻を取り、楽々とひいていった。ところが、お百姓が目を離したすきに、子供は姿を消してしまった。残っていた足跡をたどると、地蔵堂の中で消えていたという。
別の伝承によれば、ある農家で田植えの時期に人手が足りなくて困っていると、見慣れない子供が現れて、馬の鼻を引っ張って手伝ってくれた。けれども、昼飯時になると、子供の姿が見当たらない。翌日、田植えが早く終わったので、その家の主人が地蔵堂にお礼参りに行くと、地蔵の足が泥まみれになっていたという。
また、この地蔵には「稲刈地蔵」の名前も伝わっている。ある年、横添村の一人の若者が、稲刈りの後で仲間と伊勢参りに行くことになっていた。出発の前日までに稲刈りが終わらなかったが、翌朝起きてみると、稲はすべて刈り取られていたという。さらに、伊勢参りの道中、府中から来たという青年がこの若者に親切にしてくれた。伊勢から帰った後で、若者がこの青年を府中へ送って行こうとすると、青年は坂下地蔵堂に入って姿を消したという。
こうした伝説のために、人々は願い事があると、坂下の地蔵に鎌を供えるようになった。地蔵堂の中には、今も江戸時代に供えられた木製の鎌や、鎌を描いた絵馬が残っている。
さらに、この地蔵には、下野国(栃木県)の日光山で大量のそうめんを食べ尽くした伝説や、生まれたばかりの赤ん坊の死を予言した伝説も伝えられており、人々の信仰の厚さを物語っている。
ご詠歌 駒にむち宇津の山越し急ぐとも 下りて拝まぬ人はあらまじ