第一五番 宇津山慶竜寺(曹洞宗) 延命地蔵尊
静岡市宇津谷七二九番地一
<弘法大師が刻んだ峠の地蔵>
宇津山慶竜寺は、国道一号線から新宇津ノ谷トンネル静岡口の手前で旧東海道にはいり、宇津ノ谷峠に向かう途中にある。
かつては「渓流寺」とも記されたように、同寺の前には丸子川が流れ、そこに朱塗りの竜門橋がかかっている。寺伝によれば、天正六年(一五七八)に泉ケ谷の勧昌院四世光岩宗旭和尚が開創し、後に勧昌院九世光國〇淳和尚(一六八六没)が中興した。
本堂の須弥壇上には、向かって右側に本尊の一一面観音、中央に高さ一一〇センチ程の木製の地蔵立像と、脇侍の掌善童子と掌悪童子が祀られている。しかし、この地蔵は「おまえたてさん」と呼ばれるもの。延命地蔵は、その後ろにある左甚五郎作の厨子に納められている。二一年毎の本開帳と、一一年毎の中開帳の時にだけ姿を表す秘仏で、前回の本開帳は平成七年に行われた。
この秘仏の地蔵は、弘法大師の作と言われている。高さ八〇センチ程の石造りの座像で、両手で宝珠をもっている。もとは宇津ノ谷峠に祀られて「峠の地蔵」と呼ばれていたが、明治四四年に麓の慶竜寺に下ろされた。同寺の境内には、地蔵と一緒に下ろされた賽の河原の供養塔や秋葉灯籠が安置されており、「十団子も小粒になりぬ秋の風」という向井許六の句碑も建てられている。
<人食い鬼と十団子>
伝承によれば、天安年間(八五七−八五九)の頃、宇津ノ谷峠の奥に梅林院という寺があった。そこの住職に腫れ物ができ、時々小僧に血膿を吸わせていたところ、人の血肉の味を覚えた小僧は人を食う鬼になり、峠に住み着いて往来の人々を悩ますようになった。そのため、峠道を通る人も絶えてしまった。
その後、貞観年間(八五九−八七七)に在原業平が東国下向の勅命を受けて、この峠道を通ることになった。そこで、業平は下野国(栃木県)の素麺谷の地蔵に祈願して、この鬼を退治してくれることを願った。すると、地蔵は旅の僧となって宇津ノ谷峠にやって来た。そして、人間の姿に化けた鬼に向かって「正体を現せ」と言うと、鬼は六メートル位の姿を現した。そこで、僧が「お前の神通力は大したものだ。では、小さくなることができるか」と言うと、鬼は小さな玉になって僧の手のひらに乗った。僧はそれを杖でたたき、「今、お前は成仏した」と言いながら、十粒に砕けた鬼を飲み干した。以後、街道に鬼は出なくなったという。
一方、この地蔵は宇津ノ谷峠に移り、旅人の安全を見守ることになった。また、人々は昔の難事を忘れないために十団子を作り、それを食べたり、災難除けのお守りにしたりするようになったという。大永二年(一五二二)に連歌師の宗長が「むかしよりの名物十団子」と記していることからも、十団子の伝説と結び付いた峠の地蔵が、かなり古くから祀られていたことがうかがわれる。
現在、十団子は縁起物として、縁日の八月二三日と二四日に慶竜寺で売られている。また、この日には初盆供養のために遠近から多くの人々が参詣に訪れる。かつては地元の青年団が念仏供養を行ったというが、今は僧侶による供養である。だが、子供たちが花や線香を売る風習は、昔から変わることなく続いている。
ご詠歌 極楽の道をとうげの蔦の道 わけて尊き御堂なりけり