第一三番 いざり地蔵尊

静岡市丸子七丁目

<廃寺になった長栄寺>

 いざり地蔵尊は、とろろ汁で有名な丁子屋の西脇の小道を入ったところ、旧丸子一丁目公民館の玄関脇のほこらに祀られている。
 この場所は、江戸時代には丸子宿の西端であった。そこに、丸子勧昌院〇〇世月心〇〇和尚が開創した金谷山長栄寺という曹洞宗の寺があった。いざり地蔵も、もとはこの寺のものだったと思われる。しかし、明治時代に長栄寺が廃寺になると、その跡には同寺の閻魔大王を祀る閻魔堂が建てられ、その中にいざり地蔵も安置された。けれども、昭和四〇年頃に公民館の建設が決まると閻魔堂も取り壊されて、閻魔像は勧昌院に移された。そして、いざり地蔵だけがこの地に残ったのである。
 公民館の裏側には、かつて長栄寺にあった百基程の墓石が無縁仏として祀られている。また、文化一一年(一八一四)に長栄寺の門前に建てられた「梅わかな丸子の宿の登路々汁」という松尾芭蕉の句碑は、今は丁子屋の前に残されている。そして、この句碑の西側には、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』の中から、「けんくハする夫婦は口をとがらして鳶とろろにすべりこそすれ」の歌を刻んだ碑が昭和五七年に建てられた。

<行き倒れの旅人といざり地蔵>

 言い伝えによれば、文政二年(一八一九)、一人の旅人が宇津ノ谷峠を越えて丸子橋までやって来た。しかし、長旅の疲れか、病気のためか、道端でうずくまって歩けなくなってしまった。それでも気力をふりしぼって這って(いざって)行ったが、どうにも動けない。見かねた村人が家に連れ帰り、手厚く看護をしたが、間もなく息を引き取った。そこで、村人たちはこの旅人を葬り、来世では足が丈夫になりますようにとの祈りを込めて、石の地蔵を立てたという。この地蔵が、いつ頃からか「いざり地蔵」と呼ばれ、地元では「おいざりさん」と親しまれるようになった。高さは台座を含めて七一センチ。合掌した姿で、表面に旅人の戒名と命日が「道安禅門位、文政二卯年四月二七日」と刻まれている。
 その後、この地蔵の由来を聞いた旅人たちは、道中の安全を祈り、帰りにはお礼参りにわらじを奉納したという。また、いざり地蔵は病気治しの地蔵としても知られるようにもなり、近隣から大勢の参拝者が集った。閻魔堂があった頃には、毎月二七日の夜に堂内でお籠もりをして地蔵尊の供養を行い、二八日の朝にも再び集って、午前中を堂内で過ごすのが習わしだったという。
 現在、いざり地蔵尊は丸子七丁目の町内会によって管理されており、毎月第四日曜日に勧昌院の住職による供養が行われている。また、御朱印札は丁子屋で配布されている。

 いざり地蔵には、五番からなるご詠歌が古くから伝わっている。

一番 しづがおとかねて思いしお躄も 地蔵の化身なるぞ尊き
二番 人々の心そのまま地蔵なり 貪瞋痴ぎを起こさざりせば
三番 貪瞋の心起こらば念ずべし 忍辱慈悲の地蔵菩薩を
四番 ころころとまろぶ心を気をつけて 仏の道を歩め諸人
五番 輪転の絆も今は解けぬらん 十の誓いにすがる我が身は

百地蔵札所のご詠歌には、この中の二番が採用された。

  ご詠歌  人々の心そのまま地蔵なり 貪瞋痴ぎを起こさざりせば


       
     いざり地蔵尊                    同右