第一二番 九淵山龍国寺(曹洞宗) 滝乃口地蔵

静岡市北丸子二丁目二七番地二三

<海からあがった観音像>

 九淵山龍国寺は、国道一号線を佐渡交差点から西へ約一、三キロ進み、そこから北へ約三百メートルはいったところにある。
 同寺の草創は定かでないが、文明、長享年間(一四六九―一四八九)の頃、真言宗寺院として開かれたとの説もある。その後、永禄一〇年(一五六七)、丸子勧昌院五世松山宗宿和尚が同寺に隠棲し、宗旨を曹洞宗に改めた。山号、寺名の由来はわからない。
 龍国寺の本尊は、高さ約一メートル、中国産の磁器の白衣観音であり、別名、青頸観音とも言われる。縁日は毎年三月九日。この観音像は海中から引き上げられたと伝えられているが、それには二つの伝承がある。
 一つの言い伝えによれば、この観音はもと筑紫国(福岡県)の浄土宗善導寺に祀られていた。ある時、何者かがこの観音像を盗み出した。けれども、すぐに追っ手に捕まりそうになった盗人は、観音像を抱いたまま崖の上から海に飛び込んだという。それから長い年月を経て、駿河国の江尻に住む安心という僧が、現在の富士市大野新田のあたりを通りかかった時、ふと睡魔に襲われた。しばらくまどろんでいると夢の中に観音が現れ、安心に自らの来歴を告げた上で、明日の朝この海岸に現れるから、江尻の庵に祀ってほしいと語りかけた。そして翌朝、漁師が海中から網を引き上げると、その中に一体の観音像が入っていた。安心はその観音像を譲り受けて自分の庵に祀ったが、後に龍国寺に移り住んだ時、この観音も同寺にうつし、そのまま同寺の本尊にしたという。
 また、別の伝承によれば、この観音像は相模沖で難破し、宮の島に打ち上げられた船に積まれていたもので、もとは鎌倉の真言律宗称名寺に納めるため、中国から運ばれてきた千体仏の一つだという。江戸時代の初め、小堀遠州(一六四七没)がこの観音像を値千両で所望したが、当時の龍国寺の住職がそれを断ったとも伝えられている。

<七夕豪雨で消えた滝>

 滝乃口地蔵は、龍国寺の境内の外にあり、山門の手前の道を、北西に約三百メートル迂回したところに安置されている。地蔵がこの場所にいつから祀られていたのかはわからない。名前の由来は、かつて背後の山に、落差〇〇メートル程の尾滝という滝があったことによる。別名を滝見地蔵ともいうが、もとは延命地蔵として祀られたものだったらしい。
 だが、昭和四七九年七月七日、いわゆる七夕豪雨で山崩れが起こり、尾滝は姿を消してしまった。またその際に、周囲は土石流によって荒野原となり、昔から祀られていた地蔵も流失した。そこで、昭和五三年に新しい尊像が造られ、あわせてお堂も新築された。入仏落慶法要には、地元の戸斗の谷地区をはじめ、丸子の各地域から多数の人々が集まったと記録されている。
 現在の尊像は、合掌した姿の石造りの立像で、高さ約〇〇センチ。堂内の中央に安置され、左右には一体ずつ別の石地蔵が祀られている。朝夕、地元の人々が手を合わせて通り過ぎる姿は、この地蔵に対する信仰の厚さを物語っている。

  ご詠歌 憐れみや地蔵のために戸斗の谷の 菩薩の恵みなおも不可思議


       
 寺域の北側にある地蔵堂                 滝乃口地蔵尊