第一〇〇番 南朝山光安寺(時宗) 鼻取り地蔵尊

三島市日の出町六−三

<光安寺の略縁起>

 南朝山光安寺は、三島大社の正門前から東へ約三百メートル、日の出町の交差点の数歩先を左に曲がった参道の奥にある。
 もとは真言宗だったと言われており、延慶元年(一三〇八)に遊行二祖陀阿真教上人の弟子、但阿宥弁によって時宗に改められた。その後、応永元年(一三九四)かその数年前に、南朝方の皇子で遊行一二世となった尊観法親王が光安寺に宿泊し、同寺で三島の代表的な八つの景色、「三島八景」を漢詩と和歌にうたっている。同寺の山号は、かつては「南長山」と記されたこともあったが、元来はこの法親王との関わりによるものだったと思われる。
 往時、光安寺は現在地から一キロ程東の川原ケ谷に位置していたというが、元禄八年(一六九五)に火災のため堂宇を焼失。享保一四年(一七二九)に現在地に移転して再興された。江戸時代には門前に塔頭寺院の清涼院があったというが、安政六年(一八五九)に火災で失われた。さらに、昭和五年には伊豆地震のために諸堂が倒壊。現在の本堂は昭和一〇年の再建である。
 また、同寺では明治四〇年に寺内に福田青年夜学校を創設し、同四四年には三島農業補修学校を開校。大正一四年に実務中学校に発展したが、後に同校は移転、変遷を重ね、昭和二二年に現在の三島南高校に合併されている。
 なお、光安寺には延文元年(一三五八)に僧用阿が自らの生前供養のために建立した緑泥片岩の板碑が現存する。縦一一六センチ、横二八センチ。板碑は鎌倉時代から室町時代に関東地方で多く作られたが、光安寺のものは箱根以西の数少ない遺例である。

<鼻取り地蔵の由来>

 光安寺の鼻取り地蔵には、江戸時代に生まれたと思われる次のような伝説が伝えられている。
 ある年の田植えの時期に、近くの農村では牛の鼻を引いて代掻きを行う「鼻取り」役の人が足りなくて困っていた。すると、どこからともなく見慣れない小僧が現れて、上手に鼻取り役をしてくれた。ところが、一日の仕事が終わる頃、その小僧はいつの間にか姿を消していた。そうしたことが何日か続いたある日、村人達が小僧の後をつけてみると、小僧は夕もやに包まれた道を三島宿の方へ去っていき、光安寺の本堂に入っていった。そこで、村人達が急いで本堂の中に駆け込むと、本堂の畳には泥だらけの小僧の足跡が残っており、それが地蔵尊の下まで続いていたという。
 地蔵尊は高さ約七五センチ。左手に宝珠をもち、右手で〇〇印を組む木造の坐像。鎌倉時代中期の慶派の作である。ただし、右手は後世のものであり、尊像自体も伊豆地震で大破したため、補修の跡が痛々しい。ちなみに、この尊像は実は虚空蔵菩薩で、もとは清涼院の本尊だったという説もある。長い間、光安寺の本尊として祀られてきたが、平成一四年に新たに開眼された阿弥陀如来にその座を譲り、現在は本堂裏側の位牌堂に祀られている。
 なお、この地蔵のご詠歌に限って、古くから伝承されているものと、百地蔵満願札所として作られたものとの二つがある。

  旧ご詠歌 帷子の里に名高き御仏に 法のちなみを結ぶうれしさ

  新ご詠歌 六道の人の心の雲晴れて 打ち収めたる百地蔵尊