令和元年(平成31年)歳末ごあいさつ

平成三十一年として始まり、五月から令和元年となった一年が歳末を迎えています。この一年間は、日本にとっても、また私事ながら、顕光院にとっても時代の歯車が大きく動いた年となりました。

既にご承知の方もいらっしゃるとは存じますが、三月十八日に、当山二十六世大寛義祐大和尚の内室で、東堂の実母でもある木村しづが行年百九歳にて逝去いたしました。明治四十四年に生まれ、大正、昭和、平成と生き抜いた生涯でした。その間、昭和二十年の静岡空襲によって全山を焼失した顕光院の再建や、昭和二十四年における中央幼稚園の開園(昭和五十二年閉園)など、様々な形で先々代住職を支えてまいりましたが、晩年はゆったりとした日々を送っておりました。改めて、生前のご厚誼を感謝申し上げます。

 一方、皇室におかれましては、五月一日の践祚(せんそ)により、時代は平成から令和に移りました。十月二十二日の即位式典と十一月十日の即位パレードが華やかに行われたことは記憶に新しいところです。そのような中で、改めて平成という時代を振り返るのも悪いことではないでしょう。

この三十年の間には、IT革命によって情報の伝達や産業構造が激変し、人々の働き方や意識のあり方は大きく変わりました。戦後につちかわれた様々なシステムに変更が加えられ、人々はそれに対応するための高度な知識と技能を要求されるようになりました。そのために、大学をはじめとする各教育機関では、そうした専門人の育成を目指すようになりました。とは言え、時間が無制限にあるわけではありません。そこで、教育の現場では、幅広い教養を身につけるための時間が削られました。各大学で一、二年生の教育を担当していた「教養部」と呼ばれる組織が、平成の時代に相次いで解体されたことは、その象徴だったと言えるでしょう。いわば「教養なき専門人」の育成に、国を挙げて取り組んでいると言っても過言ではありません。

しかし、いくら学校で高度な知識や技能を習得しても、実際の現場ですぐに役に立つとは思えません。また、様々な技術が日進月歩の時代にあって、学生時代に身につけた技能がいつまでも役に立つとも思えません。それくらいならば、学生時代には、時代や社会が変わっても、いつまでも色あせることのない教養を身につけるべきではないかと思います。砂場で山を作るときに、狭い範囲に砂を盛り上げるよりも、広い範囲に砂を重ねていく方が、時間はかかるかもしれませんが、結果的には大きな山を作ることが可能です。それと同じことで、人間も高度な知識や技能だけを性急に学ぶよりも、まずは幅広い教養を身につける方が、長い人生にとってははるかに有益ではないでしょうか。

 では、そもそも「教養」とは何でしょうか。これはなかなか難しい問題ですが、私はこんなふうに考えています。教養ある人とは、単に多くの知識のある人や、金もうけが上手な人、あるいは、多くの人を部下として自在に操る人ではなくて、むしろ、幅広い視野をもち、モノにも人に対しても、常に公平な判断と対応のできる人、周りの人々を思いやる視点と、多くの事柄をバランスよく調整する能力、さらには、他の人が思いもつかないような発想力をもつ人である、と。つまり、「私が一番だ」とか、「私だけが正しい」、「私だけよければそれでよい」という考え方から離れることが、教養ある人の基本ではないかと思うのです。

仏教の大切な教えに「空(くう)」という考え方があります。しばしば「無」という言葉でも表現されますが、何もないと言っているのではありません。永遠に変わらないものは何もないことを見極めたうえで、一つのものにとらわれることなく、柔軟なものの見方を手に入れた境地を「空」と言うのです。「これしかない」という思い込みを抱いてしまうのは、物事を一面的にしか見ていない証拠です。これまでとは違う角度から物事を観察すれば、これまで気づかなかった真実に気づくことができるかもしれませんし、自分とは違う意見に共感できるかもしれません。さまざまな情報を吸収し、それぞれの状況における最適な判断を下すことの大切さを、「空」の教えは説いているのです。そうだとすると、「空」の境地は教養ある人の生き方に通じるものだと言えるでしょう。

そして、それはいろいろなものを見て、聞いて、経験して、多くの人と関わり、語り合い、共感しあうことによって、はじめて育まれるものではないでしょうか。決して学校の成績や学歴に比例するものではありませんし、学校教育に、その育成のすべてを委ねるわけにもいきません。教養を育む役割は、やはり各家庭もその一端を担う必要があるでしょう。そのためにも、まずは大人自身が教養を身につけることが欠かせません。仏教の説く「空」の教えは、そのための一つの指針になるのではないか。いま、私はそんなことを考えています。

 歳末にあたり、お檀家の皆さまのご多幸をお祈り申し上げます。