平成30年歳末ごあいさつ
「平成」最後の師走となりました。「平らかに成る」ことを願って名付けられたこの時代。その三十年の間に、わが国が直接戦争に巻き込まれることはなかったとはいえ、やはりいろいろなことが起こりました。その中でも、平成七年の阪神・淡路大震災と、平成二十三年の東日本大震災に代表される様々な自然災害は、自然の力の大きさと、それを前にした時の人間の無力さを、否応なしに思い知らされるような出来事でした。自然の猛威によって、平穏で「あたりまえ」の生活が、なすすべもなく一瞬にして奪われる。それは、人々が想像だにしていなかった事態でした。しかし、それが現実になった時、人々は失ったものの大きさ、かけがえのなさに、はじめて向き合うことになりました。「あたりまえが、あたりまえ」にあることが、いかに「ありがたい」ことかということを、それを失って気づくことになったのです。
このように、あまりにも「あたりまえ」であるがゆえに、私たちが普段気にすることなく「あたりまえ」に享受しているものは数多く存在します。健康、家族、友人、お金、信頼等など。それらが「ありがたい」ものであることは、いずれもそれを失ってみてはじめて気づくものだと言えるでしょう。そして、この「あたりまえ」に存在している「ありがたい」ものの中には、いまの日本社会のあり方も含まれるのではないでしょうか。
私たちは、殺されることなく、奪われることなく、だまされることなく暮らせることを、「あたりまえ」だと感じています。しかし、それらは他の国々では必ずしも「あたりまえ」ではありません。それどころか、殺され、奪われ、だまされることが「あたりまえ」の地域も数多く存在します。日本においても、戦国時代には、殺さなければ自分が殺され、奪わなければ自分が奪われるという状況でした。いまの日本社会における「あたりまえ」は、江戸時代の人々が長い年月をかけた意識変革と、それを実現するために不断の努力を重ねてくれたおかげです。そして、その象徴となったのが、殺生を禁ずるために五代将軍徳川綱吉が出した「生類憐みの令」であり、そのより所とされたのが、仏教の教え、とりわけ、殺すな(不殺生戒)、盗むな(不偸盗戒)、姦淫をするな(不邪婬戒)、嘘をつくな(不妄語戒)、酒に飲まれるな(不飲酒戒)という五つの戒律だったのです。そうだとすれば、現在の私たちが「あたりまえ」に享受している安全な社会は、仏教の教えが人々の中に無意識のうちに定着していることのおかげだということができるでしょう。私たちは、仏教の教えを守りながら、それに守られることで日々を送っているのです。
けれども、こうした「あたりまえ」の社会は、ほんの小さなきっかけで、いとも簡単に崩れ去ってしまうかもしれません。一人ひとりがこの「あたりまえ」の社会を守ろうと意識しない限り、あるいは、それを守るためのほんの小さな努力を怠れば、この日常の風景を維持することはできません。それは家族や友人との関係でも同じです。個人や会社が長年の努力によって勝ち得た信頼も同様でしょう。地道な努力によってようやく手に入れた人間関係や信頼も、一瞬の気のゆるみによって失ってしまう例は枚挙にいとまがありません。そして、同じことは個人の健康にもあてはまります。不摂生を重ねたり、心配事で夜も寝られないような日々が続いたならば、いのちに関わる事態を招くこともあるでしょう。そのようなことにならないために、私たちは日々の「あたりまえ」を守るために、不断の努力を続けなければならないのです。もちろん、自然災害や不慮の事故を予測して、それを回避することはできません。しかし、たとえそうだとしても、日ごろからそれらに対する備えをしておくことは、やはり「あたりまえ」の日常を、できる限りの範囲で守る努力ということになるのではないでしょうか。
「あたりまえ」の「ありがたさ」を、それを失ってから気づくのでは遅すぎます。それどころか、いったん失った「あたりまえ」をもう一度手に入れることは、決して容易なことではないでしょう。あたりまえが、あたりまえ。それが一番、ありがたいということを、心の中に常に刻みながら、それを守り続ける覚悟と努力を、決して忘れることなく暮らしたいと思います。
来る年も、「あたりまえ」を「あたりまえ」に享受できる年でありますように、お檀家の皆さまのご多幸を心より祈念申し上げます。